西国街道


 西国街道(さいごくかいどう)ってば、京阪神に住む人はたいてい国道171号線(俗称:いないち)を思い出す。“いないち”の別称みたいなもんだ。西国街道は古く奈良時代からあって、奈良や京都から西国に向かう街道だった。時代により、目的により、場所により、山陽道や山崎道や中国街道と同じだったり違ったり、全然別の名前で呼ばれたり、ルートが変わったりとか、結構複雑みたいだ。

芦屋から箕面付近までの国道171号線 拙者も打出の住民として、国道171号線のことを“西国街道”と呼んでたし、阪神・打出駅の北側に西国街道があったこと、以前にあった芦屋市場の西に“西国橋”があるのは知ってた。しかし、その実態についてはほとんど無知に等しかったんだ。で、1999年10月の上旬、いきなり芦屋市立美術博物館を訪れ、お仕事のジャマになるのも顧ず、色んなことを聞きまくった。そして、まず作り上げたのがこの西国街道に関するページだ。

 さて、時代はさかのぼって、大化改新(645年)のあと地方行政制度が整備され、役人などの往来のために交通制度が作られ、その時に主要道路の7道が定められた。
ちょうど中国では玄奘三蔵(602年〜664年)の時代、イスラム社会でコーランが成立(653年?)したころだ。
 その7道の一つが山陽道だ。山陽道は都と西の朝廷・太宰府とを結ぶ重要な道路だから、唯一の大路とされた。大路なんて言うけど人と馬が通れりゃいいんだから、道幅は1間程度、2m足らずだったみたいだ。
しかし、場所によっては物資や人の大量移動に堪えるように幅12m近くあり、有事には軍事行動も可能だったそうだ。

 “定められた”んだから、道自体はそれより以前からあったんだろう。ひょっとしたら途切れ途切れだったかも知れないけど、一部は古代…、もしかしたら弥生時代以前からあったかも知れない。
近世の打出村付近
近世初頭の摂津国全図に見える街道
(西宮市立図書館所蔵)
芦屋市史より引用 緑文は加筆



 街道には原則として 16km(律令時代の30里)ごとに駅(または駅家 うまや)を置いた。役人を乗せて馬子が馬を引くんだね。鈴を鳴らしながらだったらしい。クマよけかな?
 次の駅で馬を取り替えてって、8〜10駅/日って感じで旅をしたようだ。駅(うまや)って言っても馬を置いてるだけじゃなく、飲食なんかも出来たみたいだ。ま、サービスエリアも兼ねてたんだね。

 そうそう、山陽道は外国の使節も通るからって、一部の駅は当時としてはデラックスな瓦葺き・白壁造・朱塗りだったそうだ。見栄を張ったんだろう。(笑) この山陽道がのちに“西国街道”と呼ばれるようになった。

 それはともかく、京都からの山陽道、すなわち西国街道が更に重要になったのは、延暦13年(794年)の平安遷都以降だろう。その京都からの道と大阪(難波津)からの中国街道が合流したのが他ならぬ摂津国 菟原(うはら)郡の打出村、芦屋の打出だ。
 ちなみに、京都からの西国街道と難波津からの中国街道との古い合流点は、菟原は菟原でも、打出村ではなく森具村(現在の西宮市御茶家所町)だって説もある。


三ノ宮駅北東の碑と案内板
三ノ宮駅近くの本街道を南西から北東に向かって撮影
案内板の正面はダイエー三宮駅前店
神戸市中央区旭通 5-2  撮影:2002年9月3日

 
生田筋南端
生田筋の南端 
生田筋で本街道と浜街道とが合流し、生田筋の南端で西に向かう
そして、三宮神社の前を通って元町商店街へと向かう
 
神戸市中央区三宮町1  撮影:2002年9月3日

 で、今、西国街道ってば、上に書いたように国道171号線(ズバリじゃないけど)として京都から西宮までの道が残ってるが、西宮より西の本街道は途切れ途切れにしか残ってないみたいだ。

 大阪や尼崎が重要になった17世紀頃には、西国街道より、その南の中国街道(浜街道)の方が往来が多かったのだろう。
 けど、その断片は色んなところに残ってる。左の写真はJR三ノ宮駅の北東、ダイエー三宮駅前店北側にある西国街道・本街道の碑と案内板だ。

 本街道は生田神社の南門まで延びてた。そして、そこで南に下り、生田筋でセンター街を通って来た浜街道と合流する。そう、ジュンク堂のところだ。
 合流した西国街道は生田筋の南端で西に向かって神戸元町商店街に入る。
 元町商店街は、もともとは西国街道沿いの商店街だったと聞いているが、もしかしたら三宮センター街もそうかも知れない。センター街は昭和21(1946)年に誕生したと聞いてるけど…
三宮周辺の西国街道の地図
旭通5の案内板の地図を撮影・加工


 まずここで、西宮から神戸市中央区までの“西国街道”という呼び名に関して整理してみる。

  • 律令時代に京都−九州太宰府とを結ぶ道路、山陽道が整備され、
    江戸時代にはこの道が“西国街道”と呼ばれるようになった。
  • 江戸時代のはじめには、それまで広田村(西宮市)から越水村(西宮市)経由だった街道より
    広田村→西宮神社のある西宮町経由の道がメインになった。
    つまり、西宮神社から打出村(芦屋市)に至る西国街道は浜街道がメインになった。
  • 打出村のすぐ東、現在の西宮市川西町で、旧来の本街道とその南側を通る浜街道とに別れた。
    大まかに言って、芦屋より西は、本街道は現在の国道2号線、浜街道は国道43号線と思っていい。
    本街道は大名行列など公用に使われ、浜街道は庶民が生活道路・商業用などに使うバイパスだったようだ。
  • 明治維新の直前に神戸市東灘区と灘区との間より明石の大蔵山まで、徳川道(西国往還付替道)という街道も出来た。徳川道はまるで登山道のように山中を通ってた。
  • 本街道と浜街道とは神戸市中央区三宮のセンター街と生田筋との交点で再び合流する。
  このサイトでは最初に整備された西国街道(山陽道)を本街道と、その南にある海沿いの街道を浜街道と呼ぶ。

 西国街道と呼ばれるようになった江戸時代のメインの道筋から「西国街道は京都より西宮まで。それより西は山陽道」とされることもあるのだろう。しかし、上の書いたように、西宮より西の山陽道も“西国街道”と呼ばれることも確かだ。少なくとも芦屋では、西国街道を“山陽道”と呼んだりしない。普通は…。

 なお、西国街道(の一部)は京都方面では“唐街道”とか“山崎通”とか“山崎道”とか“山崎街道”(そう、仮名手本忠臣蔵 五段目 “山崎街道鉄砲渡しの場”の山崎街道)とも呼ばれることもあるが、この場合は京都−西宮間、場合によっては、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)−西宮、京都・東寺口−神足(こうたり:長岡京市)まで、とすることもあるみたいだ。

 さて、京都から大山崎、大阪府北部辺りの西国街道に関しては資料も多いだろうから、3番目の駅(うまや)があったのに、極めてマイナーな芦屋市内の西国街道に関して書いてみよう。なにを隠そう、拙者は芦屋市民、しかも打出村の住民なんじゃ。(笑)


 芦屋市付近の旧西国街道の地図と詳細は別ページに用意してます。→
クリックすると別ページにジャンプします

旧西国街道 芦屋市春日町11付近
昭和53(1978)年の春日町11付近の旧本街道
(芦屋市立美術博物館提供)
 阪神・打出駅の北に鳴尾−御影線が通る前までは打出の周辺にも昔の街道筋を髣髴とさせる景色がそこここに残っていた。

 左の写真は打出駅の東の春日町11付近だ。東から西に向かって撮られた写真のはず。
 細い道の両側に商店や民家が並んでいた。正面は昔、精米所だった記憶があるけど、写真の当時も精米所だったかどうかは自信がない。

 この地区は戦災に遭わなかったので、建物は明治時代…、遅くとも大正期に建てられたものだろう。もしかしたら、中には江戸時代以来のものを補修しながら、ってのもあったかも知れない。

 この道は区画整理によって消えてしまっている。道路が阪神電車の線路や国道2号線と平行ではなく、曲がっているので具合が悪いと判断されたのだろう。

 さて、下の6枚の写真は、現在兵庫県芦屋市内に残ってる西国街道・本街道の断片だ。本街道は今の芦屋市内をほとんど東西に走ってた。春日町、打出小槌町、宮塚町、茶屋之町の何ヶ所かに本街道の断片が残ってる。
 しかし、これらの道はほとんど路地とか裏道みたいな感じで、古い地図と突き合わせるか古老に聞かないとこれが西国街道・本街道だったなんて判らない。
 芦屋市内の西国街道・本街道は、昭和2年(1927年)の国道2号線開通以降は単なる村の細道になってしまったようだ。第2次世界大戦後も、国道2号線や阪神電鉄の線路と並行しない本街道は、区画整理の都合でどんどん姿を消した。


西国街道と中国街道の延長との交差点 下の地図の (1) の地点だ。
打出の一番東に
西国街道・本街道と中国道の延長である浜街道との
交差点があった。この場所がそうだ。
今で言えばインターチェンジだな。(笑)

西国街道の本街道は写真の右から来て
折れ曲がって、奥に通じてた。
で、手前は西宮戎から“なにわ”へ通じる道だった。
後代、西国街道・浜街道として
主にこちらの道が利用された。

ここには西国街道の道標が残ってる。
兵庫県芦屋市春日町17, 18  撮影:1999年10月6日

春日町5の西国街道の痕跡
左手が鳴尾−御影線で、一番右手の細い道が旧西国街道
兵庫県芦屋市春日町5  (西から東に向かって撮影)
撮影:2004年 7月 4日

下の地図の (2) の地点。

春日町と打出小槌町との境に近く

ここの北北西の打出天神社の辺りに
葦屋駅(芦屋駅:あしやうまや)があった
との伝もあるが、はっきりしない。

葦屋駅の場所としては、三条南町または
津知町(つぢちょう)、あるいは西宮市の森具(もりぐ)
御茶家所町あたりが有力らしい。
打出の西国街道断片
打出に残ってる西国街道・本街道
(芦屋市広報課発行「プロムナード芦屋(S60.11)」裏面の
「芦屋市全図」を流用)

明治時代中ごろの打出周辺の地図
明治17〜18(1884〜1885)年測量の地図
 (芦屋市立美術博物館提供)
赤字は加筆
表記上の道路の幅は、道幅ではなく重要度を表したものと思われる
国道43号線が開通する前の旧国道(浜街道)だって
ずいぶん狭い道だったぞ


打出天神社
  打出天神社

 下の地図は明治時代中ごろの打出の地図だ。上の地図とほぼ同じ範囲なので、見較べると面白い。
 当時、鉄道は10年ほど前に開通した汽車(JR)だけで、阪神電車も(阪急電車も)まだ走ってない。
そう、ニューヨークの自由の女神もパリのエッフェル塔もエディソンのレコードもまだなかった時代だ。
 この地図では鉄道の線路は単に“鉄道”となってて、“自大津 至神戸”と記してある。
 ちなみに、芦屋停留所(芦屋駅)が出来たのは汽車が通ってから40年ほど経った大正2(1913)年だ。阪神の打出駅や芦屋駅より5年も遅い。

 また、道路の方も国道43号線は勿論のこと、2号線だって開通してない。神戸や大阪に行くには何百年も前からあった西国街道・本街道や浜街道を利用したことになる。

 本街道には“至 神 戸 道”の文字が見えるから、この当時、本街道は主要道路の一つだったようだ。
 しかし、三反田(現・若宮町)や西川原、西ノ口(現・浜町の北側)付近は大きな集落になってるから、浜街道の方が賑わっていたと思う。
 打出の小学校、宮川小学校が浜町 1-9 に設立されたのは昭和2(1927)年だが、昭和になっても若宮町、浜町の賑わいは続いたのかな?
実はそれ以前、明治の初めに打出村尋常下等小学校なんて寺子屋みたいなのも開校したけど…
打出小槌町に残る旧西国街道 上の地図の (3) の地点。

打出小槌町の料亭「わらびの里」の前だ。

昔は、手前の春日町側から続いてたけど
途切れてしまってる。

つまり、赤いタイル敷きの部分も
旧西国街道・本街道だったんだけど
今は私道になってて、写真の手前の方は行き止まりになってる。
芦屋市打出小槌町11, 12 「わらびの里」前  2004年 2月25日

打出の西国橋 上の地図の (4) の地点。

打出小槌町と宮塚町との間を流れる
宮川に掛かる西国橋だ。

芦屋で最初にできた橋だそうだ。
欄干も新しくなっているが
なんともショボい橋だよなあ。(笑)
しかし、戦後すぐはもっと狭い木の橋だったように思う。

左のプレートにも“西国橋”の文字があった。

西国橋 水管橋
西国橋

芦屋市宮塚町側から  撮影:2003年12月 3日

茶屋之町2 ここで芦屋市内の西国街道の痕跡はなくなる
下の地図の (5) の地点
芦屋市茶屋之町2  撮影:2004年 7月 6日



同上 撮影:2000年 4月18日

西国街道・本街道があとから出来た国道2号線
斜めに交わって吸収されるところだ。
この先の明るいところが国道2号線。
以前は下の写真のようにあまり綺麗じゃなかった。
道幅も狭いが、昔の街道はこの程度だったんだろう

芦屋市内にはこれより西には
西国街道の断片はないと思う。

ここの地名は茶屋之町。
古くはこの付近を茶屋芦屋と言った。
西国街道がにぎやかだったころ
付近に旅人のための茶屋があったそうだ。

芦屋市茶屋之町付近の略図

芦屋市内で 西国街道の断片を確認出来た 西端


 芦屋市内では、ここより西の本街道は国道2号線になるはずだ。神戸市内に入り東灘区あたりまでは国道2号線と重なるらしいが、調べてない。





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