西国橋と地蔵堂、それに徳本上人名号塔


芦屋の西国橋
芦屋市打出小槌町1, 2 〜 宮塚町3, 9
撮影:2003年12月 3日


西国橋南西
“宮塚”は右手の公園のあたりにでもあったのだろうか?
芦屋市宮塚町9  撮影: 2003年11月30日


西国橋周辺の略図
白露地蔵尊
白露地蔵尊の文字が見える
芦屋市打出小槌町1  撮影:2004年 7月 6日
さいごくばし

 打出小槌町と宮塚町との間に西国橋という橋がある。芦屋川の東、約800メートルの宮川に掛かる橋だ。

 橋のたもとにも下のようなプレートがあった。
西国橋 水管橋
 西国街道に掛かってたからこう呼ばれるのだろう。ともかく、芦屋で一番古い橋だってことだ。だったら芦屋川は歩いて渡ったんだろうか?(笑)
 かなり粗末な橋だけど、昔はもっと橋の幅も狭かったように思う。

 西国街道の西国橋は何もこの橋だけだはない。他にも阪神・石屋川駅のすぐ北、神戸市東灘区と灘区との間の石屋川にも掛かってる。捜せば他にもあるかも知れない。

 芦屋の西国橋だが、この橋より西が芦屋村、東が打出村だった。昭和45(1970)年までは旧打出村の町名にはすべて“打出”が付いたんだけど、今、打出が付くのは、打出小槌町しかない。打出村の住人としては実に残念だ。(笑)

 訂正だ。芦屋村と打出村との境界は宮川ではない。芦屋と打出との境は宮川の数百メートル西、現在の宮塚町と茶屋之町の間の大溝川だった。2003年7月7日の芦屋「わがまち勉強会」で芦屋市立美術博物館の和田学芸員に伺った。宮塚町は以前から打出を冠してなかったので、ここはてっきり昔から芦屋、芦屋と打出との境界は宮川だと思いこんでた。宮塚も昔は打出だったんだ…。
 現在、大溝川は暗渠になってしまっててその姿を見ることが出来ないが、昔は宮川より大きな川だったのかも知れない。

 この西国橋の南西の角に“宮塚”という円墳があったそうだ。昔、ここの田んぼの中に由緒不明の塚があって、その塚の上に1本の栴檀(せんだん)の木が生えてたとか。宮塚町の地名はそこから来てる。

ルイ15世
Louis XV
 橋の北西のたもとに地蔵堂が見える。このお地蔵さんは延享2(1745)年のものだ。延享2年と言えば、江戸ではこの年の秋、将軍が8代の吉宗から9代の家重に変わった。
 また、ヨーロッパではルイ15世の頃で、ドイツではテレマンが《ヨハネ受難曲》を書いているし、イタリアではこの年に電池で有名なアレッサンドロ・ヴォルタ(1745-1827)が生まれてる。ヴォルタと同い年のこのお地蔵さんは、実に250年以上もこの場所に鎮座ましましてることになる。

徳本上人名号塔
裏へまわってみたけど
いつ建てられたかは書いてなかった
芦屋市打出小槌町2 撮影:2003年11月30日

 地蔵堂の南東に“徳本上人(とくほんしょうにん)名号塔”ってのがある。徳本上人(1758-1818)とは、紀州日高郡に生まれの浄土宗の僧侶で、念仏行脚行者として苦行を重ね全国をまわられた。貧富を問わず授戒を施し、役の行者(えんのぎょうじゃ)と並び「大行者」と称さる偉いお方だ。
 上人は17世紀の初め、この地で念仏を唱えながら広く布教され、晩年は箕面の勝尾寺に閑居されてたそうだ。

徳本上人のお印
これが徳本上人の
お印らしい
 しかし、「晩年の文化13(1816)年に5ヶ月にわたり信州巡錫の旅に出られ、各地で熱狂的な庶民の歓迎を受けた」とか、「晩年、江戸小石川伝通院一世となり、文政元(1818)年、そこで没された」って記録もある。だから、「晩年は勝尾寺に閑居されてた」ってのは本当だろうか?
 それはともかく、神戸市東灘区御影に徳本寺ってのがあり、その寺が上人の阪神間の布教の拠点だったようだ。

 この打出の徳本上人名号塔もご多分に漏れず、1995(平成7)年の阪神大震災で倒壊した。一時は台座も含めて行方不明になっていたが、こっそり戻され4年後の1999(平成11)年にやっと修復された。
 なお、このような碑は芦屋だけでなく、全国に1000基以上も残されているってことだ。

 以前、この碑の前(北)に芦屋市場の南側入り口があって、入口の左側は本目って散髪屋さんだったんだけどなぁ。(笑)

芦屋市場北側入り口あと
昔、左の建物(Royal Host)のところが芦屋市場の北側入り口だった
手前の道路は国道2号線上宮川交差点
国道に架かる「打出橋」は1926(大正15)年3月に竣工
芦屋市打出小鎚町1 撮影:2003年12月12日

 で、左がその芦屋市場の北側入り口があったところだ。今はロイヤルホストというファミリー・レストランになっている。



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