打 出 天 神 社

打出神社の鳥居
芦屋市春日町1 撮影:2003年(平成15年)11月26日

打出天神社
芦屋市春日町1 撮影:2003年(平成15年)11月23日
芦屋市春日町1 撮影:1999年11月16日


 打出(うちで)の天神さんだ。天神さんと言うからには、菅原道真公(845-903年)をお奉りしてある。場所は阪神電車の打出駅の北、約200メートル。

 創建・由来ともにはっきりしないらしいが、同じ敷地内にある観音堂には藤原時代の十一面観音があり、寛文6年(1666年)に観音堂が再建され、その時に観音様も修理されたって記録があるそうだ。なお、観音堂は明治時代に神宮寺として分離された。
 また、寛文7年(1667年)天神社に菅原道真の木造が寄進されたって記録があるから、天神社も観音堂と同じくらい古いらしい。

 元々産土神(生まれた土地の守り神)を奉ってた神社で、天暦元年(947年)に京都の北野天満宮に道真公が奉られてからほど遠くない時期に天神さまを奉ったとの説もある。だとしたら平安時代。えらい古い…。古い資料に“生土(うぶすな)神”と書いてあるそうだから、やはり元々は天神社じゃく、もっと古くからの産土神社だったんだろう。

 下の写真、神社の後ろに横たわるのは六甲の山並みだ。六甲山の南の地、西宮市東部から神戸市東灘区あたりに掛けてを“甲南”の地と呼ぶ。
 古く、葦屋(芦屋)は菟原(または兎原:読み方は うはら あるいは うない)とも呼ばれ、現在の芦屋市より広い、この甲南の地一帯を差したようだ。
 打出から六甲の山並みがこれだけクリアーに見える日は、そうめったにない。

撮影: 1999:10:19 10:41:08
 明治40(1907)ころ、お上より一町村一神社の方針が打ち出され、打出天神社に、宮川町(現在の町名:以下同じ)の金比羅神社、南宮町の南宮八幡宮、同じ春日町の春日神社、若宮町の若宮神社、金津山古墳の上にあった厳島神社が合祀された。
 この春日町の町名は、もともと金津山古墳の少し東、字寺開地に春日神社があったところから来ている


子供御輿の準備中  撮影:1999年10月9日

神宮寺の十一面観音像
(芦屋市史より)

 天神社は第2次世界大戦の戦火でほとんど焼失し、阪神淡路大震災でも拝殿や鳥居が倒壊したりとか、何度か受難している。神宮寺の庫裏も1992年(平成4年)の火災で焼失し本堂にもかなりの被害があった。

 現在の鳥居は震災後の1996(平成8)年に新たに作られたものだ。震災前も鳥居は確かにこの場所にあったが、昭和の終わりころまでは階段の下の広場にあった。
 明治時代まで、鳥居はもっと南、旧参道と西国街道とが交わるところにあったと聞く。昔、近所の植木屋さんが「わてえの親父が北へ移しましてん」って言ってた。以前の鳥居は天保元年(1830年)に氏子が寄進したものだそうだ。

 芦屋には拙者が知ってる限りでも天神さまを祀った神社が三つもある。芦屋神社、打出天神社、岩園天神社の三つだ。芦屋荘が京都の北野天満宮の社領だったからかも知れない、とのことだ。
 

打出天神社の鳥居の裏面
1995(平成7)年の震災で鳥居も本殿も倒壊したので再建された
撮影:2002年8月6日
 打出の伝説では、元々山陽道(西国街道)の葦屋駅(芦屋駅:あしやうまや)はこの地にあり、その跡に菅原道真公をお奉りした、となっている。この駅(うまや)は、文献からすると、瓦葺き・白壁造・朱塗りの立派なもので、葦屋には馬が“十二疋(ひき)”いたらしい。

 しかし、2002 年に神戸市東灘区深江北町から「驛(うまや)」と書かれた土器が数点出土したことから、葦屋駅の場所は、深江が有力視されている。また、地名考証から「字前田」付近との説もあるそうだ。
(「広報あしや」2003年8月1日号より) 更に、同じ芦屋川の西岸の三条南町、津知町(つぢちょう)、あるいは打出のすぐ北東、西宮市の御茶家所町にあったという説もある。

 でも、芦屋市になる前、打出天神社のあるところの地名は“精道村打出字馬場”だったんだよね。だから、もしかしたらここに駅(うまや)があったんじゃないかって思う。天神さまの前の土地だけが馬場なら、天神さまの馬場だろうけど…。なんかあきらめ切れない(笑)

 ちなみに、打出天神社の“だんじり”は岸和田製で芦屋一立派だそうだ。打出だんじり愛好会の人がそう言ってた。(笑) 我輩も精道、三条、山之町、西之町のだんじりと比べて、打出のだんじりは立派だと思う。(爆)

御神酒&おみくじ
初詣の御神酒
撮影:2004年1月1日

打出天神社について
打出天神社について  撮影: 2004年 1月20日




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