岩 園 天 神 社


芦屋市岩園町43  :撮影:1999年10月17日

 岩園(いわぞの)神社だ。場所は打出の真北。芦屋市の北東部にあたる。もと、この辺り一帯を岩ヶ平(いわがひら)言ったので、岩ヶ平天神社と呼ばれていた。

 この神社も由来はよく判らないらしいけど、元禄9年(1696年)奉納の石灯篭があったそうだから、それより古くからあったのだろう。
 境内にある碑にも“創建は元禄以前と伝えられ”の文字が見える。また、この碑によると、明治15年と昭和53年に改築されている。

 岩園天神社には、今は神主は常駐しておられず、なにかあれば神戸市東灘区の保久良(ほくら)神社からやってこられるそうだ。
 撮影した日はたまたま芦屋祭りだったせいか、“御神燈”の文字が入った提灯が掛かってて、社務所からはにぎやかな声が聞こえてきた。

 拝殿はうっそうとした森の中にあり、神社の南東側には渓谷がある。付近は住宅が増えつつあるが、いまだに古い芦屋の風景を残している。すぐ北は高級住宅地の六麓荘(ろくろくそう)町。

 近くに八十塚(やそづか)古墳群という、古墳時代後期の群集古墳があり、神社のあたりは古くから知られた土地だ。なお、神社の境内にも古墳址が二つあるけど、写真は八十塚古墳群のページにある。

 おっと、古墳時代どころか、岩ヶ平からは1.5〜2万年ほど前の旧石器時代の石のナイフが縄文時代の石器とともに出てきてるんだった。この辺は山の中だから、水害の心配も少ないし、植物の採取や狩猟には具合が良かったんだろうな。

 弥生時代以降は稲作農耕中心の生活に変わっていったはずだから、岩ヶ平の住民もだんだんと平地に移り住んでいったと思う。
 ま、弥生時代が終わるころまで会下山の尾根の上には何十人かが頑張ってたし、大規模な古墳群があるから、一概にそうは言えないかも知れないけど…。

 で、尼崎藩の支配下になって以降(1665年頃?)に岩ヶ平新田として再開発された。岩園神社(岩ヶ平神社)ができたのはその新田開発のときらしい。新田開発後はずっと人が住みつづけたみたいで、大正3年の「精道村土地利用図」では、かなり大きな集落になってる。

 この「岩ヶ平のあたりも打出か」と言われると、岩園町や六麓荘町には“打出”の文字が付かないんで弱いんだけど、江戸時代には打出村として年貢を納めてたんで、やっぱり打出の管内だろう。
 また、別のページにも書いたけど、律令時代には旧打出村とその北の岩ヶ平一帯を 摂津国 菟原(うはら)郡 加美郷 と言った。だから、岩ヶ平は打出の仲間に違いない。(笑)


どんどん川
芦屋市岩園町41  撮影:1999年10月19日

 神社の東南の通称どんどん川だ。神社の西側から流れてる。芦屋市民なら、この川は宮川の支流と思うけど、宮川ではなく、西宮市の夙川(しゅくがわ)に流れ込んでいる。
 写真左の柵のある小道を下ると雑木林や竹林に迷いこんだ感じがして、まさに大昔の芦屋の雰囲気だ。






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