八 十 塚 古 墳 群


芦屋市六麓荘町5  撮影:1999年10月19日

芦屋市岩園町45, 46付近  撮影:1999年10月19日

芦屋市岩園町46  撮影:1999年10月19日


 芦屋市の北東部、芦屋市六麓荘(ろくろくそう)町から岩園(いわぞの)町に掛けて6世紀後半から7世紀中ごろの古墳時代後期の群集墳所があり、八十塚(やそづか)古墳群と言う。
 (八十塚群集墳とも言い、広い意味では六麓荘町、岩園町、朝日ヶ丘町、西宮市老松町、苦楽園五番町の一部の古墳群を含む)

 場所は岩ヶ平神社(岩園神社)の北東にあたるところで、神社の境内にも古墳址が二つある。付近には阪急バスの“八十塚橋”バス停がある。

 古墳群の存在は古くから知られてたようで、享保年間(1716-1735)の書物などにも岩ヶ平(いわがひら)山中の八十塚のことが載ってる。

 古墳はいくつかのグループに別れてたようで、1族あるいは1郷の墓所だったと考えられるようだ。この古墳群からは陶棺(焼き物の棺桶)や須恵器、鉄器などが、また1999年の調査では、鉄の鏃(やじり)6点が出土してる。

 陶棺の出土ってのは、阪神間では唯一で、棺は遠くから取り寄せたものだそうだ。他の棺は木管だったそうだが、中には飛び抜けてリッチな人もいたんだな。
 石室は、ほとんど自然石そのままか自然石を少し加工したものが使われてたらしい。

 六麓荘町5の辺りにたくさんの古墳があったようだが、「八十塚古墳群」の看板は見当らず、六麓荘町の町内案内板でこの場所だと判った。
 看板か碑があっても目立たないか、こっちがぼんやりしてるかのどっちかだろう。(笑)


 六麓荘町の古墳群には入れなかったので、岩園町の“保護樹林”として開放されているところに行ってみた。

 特に“八十塚古墳群”なんて書いてなかったけど、芦屋市史の古墳群位置図と照らし合わせると、古墳のあった場所だ。
 敷地内にいくつかの大きな石が転がってたが、たぶん、古墳に使われてた石なんだろうな。


 古墳時代前期の竪穴式前方後円墳は一つの世代に一つづつで首長級の墓だったが、6〜7世紀頃の墓、つまり八十塚古墳群の時代の墓は横穴式の石室を持つ小型の古墳だ。
 で、入り口を開けて追加埋葬できるしかけになってる。それが何世代か続いてこんなふうな古墳の集団になってしまった。

 つまり、今まで首長クラスしか作らなかった古墳が、庶民とまでは言えないけど、その下のクラスの有力農民にまで広がったってことになる。

 ただ、古墳はたくさん見つかってるけど、この数に合うだけの生活の場、住居跡は見つかってないらしい。また、芦屋から少し離れた猪名川や武庫川の流域に大規模な集落があったのに古墳群が見つからない。
だから、それらの人々が芦屋に墓を造った、との考え方はどうだろう?って思う。見つからないから”ない”とは言えない。拙者の財布だって時々見つからなくなるけど、めったになくなったりはしないぞ。(爆)
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 確かに八十塚古墳群を含む芦屋の横穴式古墳は異様に多く、その数は200以上もあったようだ。墓の数と造られた期間からして、千人分と計算できるそうだ。墓を造れるのは有力農民。その他に立派な墓を作れない貧しい人たちがたくさんいたはずだ。それからするとこの時期の芦屋の人口は江戸時代前期の約1500人をはるかに上回ることになるそうだ。(参照: 芦屋市立美術博物館刊:“なりひら”Vol.30 「群集古墳の偏在について」−小田 博氏)
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 この時期以前の打出に三つ(以上?)もの中期円墳あったり、後の律令時代に芦屋廃寺が建立されたことを考え合わせると、古代の芦屋が江戸時代の芦屋以上に栄えててもなんの不思議もないと思う。


岩園天神社内の古墳跡 撮影:1999年10月20日

 “八十塚古墳群”とされるところで写真を撮れなかったんで、代わりにすぐ近くの岩園天神社内に残ってる古墳跡を撮っておいた。この二つの古墳も六麓荘町や他の岩園町の古墳と同じく、八十塚古墳群のものだ。しかし、二つともほとんど原形をとどめてない。
 なお、芦屋市内の横穴式古墳でほぼ原形を留めているものは芦屋神社の境内にある。

 下は江戸時代末期に建てられた修験道(しゅげんどう)の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)=役小角(えんおおずぬ)」役優婆塞(えんのうばそく)の碑として知られているが、もともとは古墳だった。盛り土はたぶん碑を建てたときのものだろう。
 ちなみに、西暦2000年には役行者(葛城山麓、茅原の里634年?-701年摂津の箕面山で没?)の“1300年大遠忌”が行われたそうだ。

 なお、“八十塚”と称する古墳群は、なにも芦屋の後期古墳群だけではない。JR片町線・寝屋川駅南東の打上高良神社内に“石の宝殿”あるいは“石の唐戸”と呼ばれる横穴式石室の後期古墳があるが、その付近も八十塚と呼ばれている。
 また、高槻市の阿武山の東南斜面の古墳群も“塚原八十塚”と呼ばれる。その気になって捜せば、近畿地方以外にも八十塚という地名はあるかも知れないな。


●の箇所が古墳跡 (芦屋市史より)
赤字は加筆




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