芦 屋 廃 寺 跡


モンテメール1階 ハイジ芦屋店
撮影:1999年11月5日
ラポルテ本館1・2階 C
撮影:1999年11月10日

 “アシヤハイジ”ってば、芦屋の女性はチョコレートケーキが美味しいケーキ屋さんを思い出す。(笑) “ハイジ”ってスイス風ケーキ屋さんの芦屋店がJR芦屋駅の北、ラポルテの1階の角にあったんだ。
 震災後、そこは“C”ってケーキ屋さんになり、“ハイジ”はJR芦屋駅駅ビル/モンテメールのお菓子売り場の中に入ってるけどね。
 ともかく、芦屋で“ハイジ”ってば、スイス菓子の“ハイジ”の方がはるかに有名だ。(笑) だから、ラポルテの“C”は“ハイジ跡”ってことになる。(爆)

 あ、芦屋のケーキ屋さんの紹介のページじゃなかったんだ。そっちの方はいずれまた。(笑)


奈良時代前期の形式を示す 芦屋廃寺 塔心礎 礎石
現在は芦屋市立美術博物館前庭にある

伝承では、まん中のホゾ穴に溜まった水を
“イボ落とし”に使ったそうだ
マークに関してはこちら

撮影:1999年11月14日

 さてさて、芦屋には奈良時代の前期に建てられた大伽藍を持つ大きなお寺があったんだ。けど、はるか以前にそのお寺はなくなってしまって、名前も判らないから“芦屋廃寺”って呼ぶ。もっとはっきり言うと、どういう名前のお寺だったかはっきりしないから、旧バージョンの芦屋市史で“芦屋廃寺”と名づけられた。

 「お寺なんてそこら辺にいくらでもあるじゃないか」って思うかも知れないけど、これって大和朝廷が国家的事業として各地に寺を建て始めた7世紀末から8世紀の話なんだ。しかも、芦屋にその寺を建てたのは、畏れ多くも東大寺の大仏を造った、あの行基さまだって記録がある。

 当時、お金の掛かる寺院は、そう滅多やたら建てられなかった。阪神間で見てもほんのわずかの例しかない。伊丹市の伊丹廃寺、尼崎市の猪名寺廃寺・若王子廃寺…。当時の芦屋はよほどの重要地点だったか、有力者が住んでたかしたんだろう。

 天平時代(8世紀)の文献に、「行基が菟原郡(今の芦屋の辺り)に寺を建てた」とか、「法隆寺が摂津の国菟原郡に寺領を持ってた」なんて記録がある。
 菟原(兎原: うはら)って地名は今の神戸市東灘区の一部まで含み、現在の芦屋市より広い地域を差した。だから、これらの記録だけでは、その寺の場所が果たして今の芦屋市内なのか、芦屋市内だとして、それがどこだったのかははっきりしない。


摂津名所図絵 寛政8年(1796年) 芦屋市美術博物館提供

 けど、芦屋市西山町にこの当時の寺の跡らしい遺跡が出てるし、元禄時代の文献には、「その地に行基が建てた“塩通山 法恩寺”って寺があって、後に在原業平が伽藍を建立したけど、戦火で焼け落ちたので、跡に薬師堂を建てた」との記録が残ってる(「寺社御改委細帳」1692年)。でも、残念ながらこの寺の名前は文献によっては“報恩寺”とか、“報応寺”と書かれててはっきりと判らない

 で、江戸時代の「摂津名所図絵」には芦屋川東岸に“薬師”とその西に“若宮”が描かれてる。この“薬師”が芦屋廃寺(法恩寺?)跡に建てられた薬師堂らしいのだ。

 芦屋廃寺跡とされるところからは、まず、明治の終ころに石棺が出て遺跡として注目され、昭和の初め以来、多数の古い瓦や礎石なんかが見つかってる。
 瓦や礎石の古いものは奈良時代前期のものとされるし、火事で焼け落ちた跡が残ってる。また、薬師堂跡らしいのも発掘されている。だから、ここが芦屋廃寺の跡だろうってことになってる。

 芦屋廃寺が戦火で焼失したのは、上の元禄時代の文献によると、室町時代の末期 1442年ころらしい。その百年ほど前には足利尊氏が打出浜なんかで戦ってるし、1511年にはすぐ西の芦屋川の河原でも血生臭い戦いが繰り広げられている。当時の芦屋は戦乱の地だったんだろう。そう、この頃ってちょうどあの応仁の乱(1467年)の前後なんだ。


寺田遺跡(の一部) 発掘現場
芦屋市西芦屋町5  撮影:1999年10月29日


 芦屋廃寺跡は阪急・芦屋川駅から商店街“山手 サンモール”を抜けて300メートルほど行ったところだ。旧 摂津国 菟原郡 芦屋村 西ノ坊 。芦屋廃寺のあとに建てられた薬師堂が“西ノ坊”と呼ばれてたので、この地名があるらしい。

 実は芦屋廃寺跡に行った日、「芦屋廃寺跡はどこやったかいなぁ」と、たまたまその南の西芦屋町を通りかかったら、何やら遺跡の発掘調査らしいことをしてた。で、とりあえず記念撮影。左の写真だ(笑)

 素人の拙者が見ると穴ぼこの跡だけで、なんの遺跡か判らない。「ん?まん中に大きな柱のあとらしいのがあるぞ…」。なんの遺跡か尋ねようかと思ったけど、仕事のジャマしちゃ悪いかな?と思ってやめた。なぜか、時々意味もなく遠慮深くなるんだ。(爆) あとで知ったんだけど、寺田遺跡の発掘現場だった。

 けど、作業してる人は遺跡には詳しいだろうからと、「あの…、芦屋廃寺跡はどこでしょうか?」って尋ねてみた。したら、一人のかたが「ここを真っ直ぐ北に行ったら阪急の踏切があります。それを渡って左です。道の南側になります」ってことだ。「ありがとうございます」



 踏切を渡って右を見ると阪急芦屋川駅から続く商店街だ。その反対側をしばらく進むとマンションかなにかの工事現場があった。地名を確かめると西山町4だ。確か、西山町には弥生時代か古墳時代の遺跡があって、漁業関係のアイテムが出てたなぁ…。

 見ると右のような看板が出ててフェンスを張って目隠ししてある。出入口があって、そこにはヘルメットを被った大きくて強そうな人が立ってる。…2日ほど剃ってないらしい髭がちょっと恐そうな雰囲気だ。^^;

 でも、カメラ持って、ぴょこんとおじぎしたらスッと道を開けてくれた。「じゃあ…」ってんで遠慮なく入って撮ったのが下の写真だ。(笑) なんか丸い石があるけど、これって重要な石なんだろうか? 訳も判らないくせに穴掘りを見ててもしかたないので、写真を撮ってすぐに失礼した。


芦屋市西山町4  撮影:1999年10月29日

 帰ってから調べると、芦屋市史には拙者が見た発掘現場の北東、道の反対側の西山町7のあたりの発掘記録が載ってる。
 また、芦屋市立美術博物館で頂戴した資料にも「阪急芦屋川駅北側の道を東へ約300m、右側に『芦屋廃寺址』の碑があります」と書いてある。

 どうやら拙者が見たいのは、新しく芦屋廃寺の遺跡らしいものが出た所らしい。もしかしたら、念のため掘ってるだけかも知れないけど…。
 西芦屋町の発掘現場で聞いたとき「道路の南」って教わったけど、たぶん、その人は拙者のこと、単なる野次馬と知らずに、芦屋廃寺遺跡の“現場”を教えてくれたのだろう。(笑)

 芦屋廃寺跡の付近は弥生時代や古墳時代の集落跡が見つかってるし、その西の三条町から奈良・平安時代の遺物が見つかってる。また、ここの南の津知町(つぢちょう)からは和同開珎なんかも出てる。だから、この周辺は一時、菟原(芦屋)の中心地だったんだろう。

 ちなみに、出てきた瓦の様子から、ここは芦屋廃寺じゃなく、西国街道(山陽道)の馬の乗り継ぎ場所葦屋駅(芦屋駅:あしやうまや)の跡だったんじゃないかって説もあるらしい。
 けど、街道がこんな北の方を通ってたんかなぁ。もっと南のはずだけど…。とは言っても、芦屋川流域はたびたび山津波や水害で破壊されてるから、地形なんかも変わってる。道筋も変わった可能性もある。
 また、芦屋市史に載ってる地質図を見ると、この辺りは古代には、かなり北まで海だった可能性もある。だから、「ひょっとしたら…」と考えられなくもない。


芦屋市西山町7 撮影:1999年10月30日


 ところで、ラッキーなことがあった。1999年11月3日、上に書いた“寺田遺跡”発掘現場の現地説明会に行ったところ、芦屋廃寺跡から出てきた瓦が展示されてたのだ。それも無防備にガラスケースなんかに入ってなくて、市役所の備品らしい机の上に置いてあって、手で触れる状態だった。

 こういうのは博物館なんかに置いてあっても、手で触ることはおろか、たいてい撮影禁止だ。お寺の中なんかだと、更にその上、脱帽だもんな。(笑)
 で、「写真撮ってよろしいでしょうか?」って尋ねたら、「ええ、いくらでも。カメラ貸してくれたら、発掘物と一緒に記念撮影してあげます」って言われたけど遠慮しといた。(爆)

 瓦は、新しく上の写真の現在発掘調査中の場所から出たものと思う。


芦屋市西山町 寺田遺跡現地説明会にて 撮影:1999年11月3日

 左の3枚が遠慮なくナマ撮りした写真だ。特に一番上のが貴重で、7世紀末の白鳳時代のものだそうだ。奈良の法隆寺近くの同時代の寺のものと同じ様式だからそれと判ると言うことだ。
 つまり、この瓦が出てきたことから芦屋廃寺は天平時代どころか、7世紀末の白鳳時代に建てられてたことが判る。

 あと、一番多いのは下の2枚の写真のような8世紀のものだそうだ。色んな時代の瓦が出てきてるってことは、何度か修復されたんだろう。あったりまえだけど…。^^;
 なお、9世紀の焼けた瓦が出土したことから、芦屋廃寺は9世紀に一度焼失してるらしいことが判ったとのことだ。


 瓦を見てて気になったことがあった。奈良の法隆寺とかどこやらの寺と同一様式とかもいいんだけど、いったいその瓦はどこで焼かれたんだろう?ってことだ。
 素人の拙者としては現地に窯を据えて焼いたと思えないし、かと言ってわざわざ奈良あたりから多量の瓦を運んだとも考えにくい。

 答は“現地生産”だそうだ。土の成分を調べたところ、六甲山系の、しかも芦屋周辺の土が使われてることが判ったそうだ。
 窯跡こそ発見されてないけど、瓦が焼かれたのはこのすぐ近く、おそらく半径1km以内のところだろうってことだ。ちょっとした驚きだった。
 もしかしたら現場、あるいはそのすぐ近くに窯を置いて瓦を焼いた可能性もあるな。で、仕事が終わったらジャマだから窯は取り壊されてしまったとか…。





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