芦 屋 神 社


芦屋市東芦屋町20 芦屋神社  撮影:1999年11月14日
七五三参りの日だった


撮影:1999年10月20日

猿丸太夫の墓と伝えられる宝塔  撮影:1999年10月20日

芦屋神社境内にある後期古墳  撮影:1999年11月14日


 旧芦屋村の氏神だ。他の村との山争いの際には、住民がこの芦屋神社の境内に集まって決起・団結の集会を開いたそうだ。

 その昔、ここは芦屋村の一番北の外れだったんだろう。昭和のはじめ頃までは、神社の裏山はうっそうとした森だった。

 大正の終わりから昭和の初めらしいけど、神社の南の方にミカン畑があったそうだ。「へ〜、どのへんですか?」って聞いたら「なんや知らん、その辺。南の方…」ってことだ。(笑)
 で、古い地図を見たら、なるほど芦屋神社のすぐ南は果樹園ってことになってた。しかし、今は開発されて、完全に住宅地だ。南にミカン畑どころか、神社より北に住宅はもちろん、学校や市民プールがあったりする。

 この神社はもともと芦屋天神社といったけど、下のプレートにあるように、昭和21年(1946年)に芦屋神社と名前を改めた。
 おそらく、一時は天神信仰がはやったから、あるいはなんかの都合で天神社を名乗ったが、メインの神さまが天穂日命なんで、戦後になって“天”を取ったのだろう。まさか進駐軍の圧力ってことはないと思う。(笑)

 芦屋の社寺の常として、この神社も創建&由来も明らかじゃない。ともかく芦屋郷には文献があまり残ってないのだ。現在の社殿などは昭和5年(1930年)に改築されたもの。
 

 芦屋神社の境内には猿丸太夫の墓と伝えられる宝塔がある。猿丸太夫ってば、百人一首にある「奥山に 紅葉ふみ分け なく鹿の 声きくときぞ 秋は悲しき」の作者とされるあの猿丸太夫だ。
 “奥山”といえば、今も芦屋に地名が残る“奥山”だってことだ。奥山は名前のとおり、今でもかなり奥深い山だ。

 実は、猿丸太夫ってのが誰かよく判らないらしい。いつの時代の人かさえあやふやで、その実存さえ疑われてるって話だ。言ってみれば伝説上の歌人ってことになる。ましてや猿丸太夫と芦屋との関係となると、まったく判らないそうだ。
 けど、芦屋には古く(16世紀?)から猿丸一族がおられ、今でも猿丸を名乗られるお宅がある。

 しかし、熊本県阿蘇郡蘇陽町にも、猿丸太夫の墓と伝えられるものが残っていて、付近には“猿丸”という小集落があるそうだ。
 また、ITで有名な富山県婦負郡山田村では、「奥山に…」の歌はこの村の数納地区で詠まれたという説があり、やっぱり猿丸太夫の塚もある。
 捜せば他にもあるだろう。

 芦屋神社内の猿丸太夫の墓とされる宝塔は、厳重な囲いの中にあり、窓の格子の間からしか見ることができない。

 
 境内の西側には極めて保存状態の良い横穴式石室を持つ円墳がある。古墳時代後期、7世紀のものだそうだ。墳丘の南側が削られてる以外、ほぼ完全な形で残っている。神社の境内だってことが幸いしたのだろう。
 昭和の初め頃までは、周辺、特に神社の裏山にはかなりの数の横穴式古墳あとがあったそうだ。けど、盗掘されたのか中は空っぽだったと聞く。

 なお、芦屋神社の境内に残ってる古墳の石室は水神社の祠として利用されているので中には入れない。
 水神社ってば以前は、芦屋川の上流の“弁天岩”のところにあった水神さまだ。
 “フカ切り”の伝説の残る由緒ある神社だったんだけど、明治政府の一村一神社政策で芦屋神社に合祀されることになった。






戻 る トップ