会 下 山(えげのやま)遺 跡
芦屋の
三条町の山の中
、会下山遺跡に行ってきた。場所は芦屋の東の外れだ。遺跡は山手中学の西側から登るんだけど、柵がしてあって扉を開けて遺跡への道を登ることになる。扉には右のような注意書があった。
そりゃまあ、ちゃんと閉めるけど、これってつまり、柵の中に入るとイノシシと鉢合わせ、なんてことも充分考えられるわけだ。イノシシ
危険
とか、
注意
とか書いてないんで大丈夫かな?って思うけど、
高座の滝
付近でイノシシに襲われた人がいるらしい。気を付けねば…。
ちなみに、芦屋はイノシシの名所なんだ。六甲山中に住んでるらしく、
芦屋川
の上流、といっても住宅のあるあたりでも、親子連れでひょこひょこ歩いてたりする。
「でも、カメラを持ったまんまイノシシを巴投げなんてできるかなぁ」とか考えながら登りはじめた。 ← これを読んだ奥信濃(長野県北部)に住む友人が
イノシシはこわいです。>遭ったことないけど。
熊もこわいけど、イノシシはもっとこわそうです。
足も速そうだし、角も持ってるし、巴投げじゃあ効かないかも(爆)
とメールしてきた。拙者は不幸にして角を持ったイノシシにはあったことない。長野のイノシシには角があるんだろうか?(爆) それにしても、遠く離れた場所に住む人がこんなのを読んでくれるのは嬉しい。
そうそう、イノシシで思い出した。芦屋ではイノシシの出るところにスーパーの袋を持ってってはダメだそうだ。芦屋のイノシシはスーパーの袋にはかなりの確率で食べ物が入ってるのを知ってるんだ。(笑)
さて、遺跡への道はハイキングコースと兼用になってて、まるで六甲山中を歩いてる気分だ。あたりを見回すと、下界とは生えてる植物が違うんだね。下界でよく見掛ける芦屋名物の松の木なんて見当らない。
植林なんてされたことがないようで、まさに照葉樹林だ。太古からの植物がそのまんま生えてるんだろう。シイとかカシ、ブナみたいなのが多い。ドングリなんかも食べたんだろうか? 足元はクマザサ。半ズボンだったら傷だらけになったろうな。
結構な坂だから、息をはずませながら登っていった。遺跡は弥生時代中期末から後期のものと聞くけど、なんでこんな不便な所に住んだんだろう。敵の侵入を防ぐためだろうか?
クマザサを掻き分け、クモの巣を払いながら歩くこと15分位かな?いきなりなだらかな場所に出た。
芦屋市三条町
会下山古墳 撮影:1999年10月20日
復元された高床倉庫跡 撮影:1999年10月20日
撮影:1968年4月9日
標高170メートルくらいの地点からの眺望 撮影:1999年10月20日
1800年ほど前の弥生時代の集落跡。ここは標高160メートル以上の見晴らしのいい山頂尾根の上だ。ここに30人から40人くらいの人が暮らしてたらしい。遺跡は尾根伝いにほぼ南北に延びている。
マップはこっち
だ。
弥生時代ってば、もう稲作をやってたはずだから、阪神間でも遺跡はたいてい平地にある。斜面ならまだしも、こんな尾根の上の集落ってのは珍しいらしい。ただ、六甲山の南麓の高地には、この時代のいくつかの生活集団のあとが発見されてる。
ちなみに、弥生時代の芦屋人はなにも山の上にばっかり住んでたわけじゃない。この麓の方でも同時代の遺跡が見つかってる。
一番上の標高200メートルくらいのところに祭祀場だったと考えられる場所、その下にも祭祀場あとらしきところががある。
ここは実に見晴らしのいい場所だ。紀伊半島の一部から生駒山、場合によっては北西方面の京都方面まで見えるかも知れない。西の方は神戸方面もよく見える。京阪神まる見えなのだ。
そしてその下、標高180メートルくらいの位置に大きな住居跡があって、そこがこの集落の首長のお屋敷だろうってことになってる。首長のお屋敷の下には柵があって、下々の住む場所と区分されてたらしい。
柵の下に一般の住民が住み、倉庫や煮炊きする場所、泉、ゴミ捨て場なんかがあり、集落の南東には墓地があった。
住居などの周囲には溝がめぐらされてて、ちゃんと排水するようになってたそうだ。また、何代にも渡って住んだか、何かの必要で建て替えたのか、ともかく何度か建て直された形跡がある。
高床式の倉庫が復元されてたけど、ここで米を作った様子はなさそうだ。煮炊きしたりゴミを捨てたあとかが残ってるから、ここで生活したには違いないけど、米は下界から運んだんだろうか? 水は倉庫の近くに泉跡が発見されてるから、不自由なかったんだろうけど…。
でも、なんてこんな不便な所に集落があったのかはよく判らないらしい。拙者は途中までバイクで来て、それから山道を登ったけど、今は住宅地になって舗装されてる道も、当時は山の中だったはずだ。
見晴らしがいいので軍事的要塞とも考えられるけど、それにしては武器や武具の出土がやたら多いって訳じゃないらしい。
けど、確かに敵の侵入を防ぐ、あるいは見張りをするには最適の場所だし、発掘当時キッチンのあとと考えられてたところは、実は狼煙(のろし)を上げた場所じゃないかって考えもあるそうだ。だから、軍事要塞だったってことも充分考えられる。
また、もしかして、異人種とか異文化を持つ人たちがなにかの理由でここに住んだのかな?住居跡も大陸的な様式を持つらしい。あるいは、領地争いで平野部に住めなかった人々が、しかたなく山の中で暮したとも考えられるな。
しかし、平野部の人たちと密接な交流があって穀類を入手してたんだろう。土器なんか、遠く河内製のがわりにたくさん出てるらそうだからね。
でも、ここの人たちが、それらの品物に対して差し出した対価はなんだったんだろう? 鹿とかイノシシ、あるいは野ウサギの肉かな? 祈祷かな? 見張りの狼煙かな?
面白いことに、ここから鉄製の釣針や石の錘がが出てるんだよね。ということは、ここに住んでた人は海辺まで釣りに出掛けたんだろう。
釣りっても、もちろん趣味のフィッシングじゃなく、生活のためだよね。こんな山の中から苦労して海辺まで…。
ここに住んでた人に関しては色々考えられるけど、家長は祭祀を司っててここの集落の人々と共に低地の住人を支配していた、と言うのが定説のようだ。
ここの人々は弥生時代の終わる頃、卑弥呼が王になった頃にはどっかへ引っ越したようだ。平地へ降りたのだろうか? 彼らが引っ越したあと千数百年間、こんな山の中に住もうと考えた物好きは誰もいなかった。遺跡は六甲の自然というタイムカプセルの中で眠っていたので、ここの遺跡の保存状態は極めて良いそうだ。
ところで、ここに住んでた人たちは、それほど原始的な生活をしてたわけじゃないだろう。日本の弥生時代中期ってば、ユダヤではキリストが生まれた頃だし、シーザーやクレオパトラ、キケローなんかキリストより年上なんだよね。地球の西の方にあれだけの思想や精神生活があったし、中国にも進んだ文明があった。
会下山に人が住みだしたのは、キリスト降誕より数百年後のはずだ。だから、日本に住む人たちだけが精神的にも頭脳的にも遅れてたとは思えない。なるほど日本に住む人たちは住居や道具は粗末だったし文字も持ってなかったかも知れないけど、案外、豊かな精神生活をしていたのではないかと思う。弥生時代はもちろん、縄文時代や石器時代の人が我々より劣る、と考えるのは間違いだと思う。
実は、ここへ来るのは初めてじゃない。3度目くらいだ。最初、30年ほど前に来たときにも倉庫のようなのが復元されてたけど、今回見たのとちょっと様子が違う。たぶん、老朽化したんで修復されたんだろう。
それと、以前は木々もこれほどうっそうとは生い茂ってなく、もっと見晴らしが良かったと思うけどなぁ。これは季節のせいかも知れない。
30年前にはもう少し楽に登れたよな気もするんだけど、こりゃ、まあしかたないな。(爆)
会下山復原住宅 (芦屋市史より)
撮影:1968年4月9日
芦屋市史の資料編には左のような復元住宅の写真が載ってる。どうやら今復元されてる倉庫の西側あたりにあった一般の人が住んだ住宅らしい。
この復元は1961年7月からの第5次発掘調査のあとに行われたようだ。調べてみたら、昭和43年に行った時、この住宅もしっかり撮ってた。けど、なんか中途半端な撮りかただから、ネガを見たときそれと判らなかったぞ。(笑)
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