菟原郡と武庫郡との郡界
菟原郡は東は武庫(むこ)郡、西は八部(やたべ)郡、そして北は有馬(ありま)郡に接してたが、その境目ははっきりしない。 けど、だいたいのところ東の武庫郡との境は西宮市を流れる夙川(しゅくがわ)、西の八部郡との境は神戸市中央区の旧生田川、北は六甲の峰で有馬郡と接してたと考えられてる。 しかし、延長5年(927)年12月に完成した“延喜式神名帳”は、夙川の東岸にあり武庫郡に属するはずの西宮神社(当時の大国主西神社)を菟原郡の中に記している。菟原郡の西の境界が違ってるようだ。 西宮神社は当時から引っ越した形跡がないので、その当時、夙川が西宮神社より東を流れてたんじゃないか、とも考えられるそうだ。何しろ、高麗が朝鮮半島を統一する前、宋も神聖ローマ帝国もまだ建国される前の話だからよく判らない。 また、西宮市常磐町(ときわちょう)3と4との間に武庫郡と菟原郡との郡界を示すという「一本松」がある。場所は左の地図の通りで、阪神・西宮駅の北側、札場筋(ふだばすじ)すなわち国道171号線を西に入ったところだ。 平松町と常磐町との間の道を歩いてきてふと北を見ると、道のまん中に松の木と地蔵堂とが見える。 近寄ってみると「その昔、武庫郡と菟原郡の郡界だった、と言われるところ」って意味のことを書いたのと「一本松地蔵尊」ってのと2本の碑が立ってる。手前にある新しいのは昭和の時代に建てられたもので、古い方は裏に大正十五年八月と書いてあった。 松の木もまさか千年以上の古木とは思えないけど、地元でずっとそういう伝承があるのだろう。同じような松がこの北側の山際にもあるそうだ。 上に記した西宮神社に関する記述とこの松の木から、古い郡界は今の夙川よりかなり東だった、とも考えられる。もしかしたら、太古の夙川は左の地図の青い点線の辺りだったのかな? ついでながら常磐町の一本松の南の方の平松町に、谷崎潤一郎(明治19-昭和40: 1886-1965)の「細雪」に出てくる「マンボウ」と呼ばれるJRの線路をくぐる小さなトンネルがある。一番高いところで180cm程度だろうか?拙者の身長は170cmだが、思わず首をすくめたくなる。 北の平松町側からマンボウを抜けると和上町5と産所町15との間の国道2号線が目の前だ。 マンボウは西宮市内には幾つかあるが、もともとは下水道だったそうだ。・・芦屋市内では目にしたことないなぁ…。 閑話休題、菟原(兎原)は葦屋(蘆屋、芦屋)とも呼ばれたようで、上にも書いたように、今の芦屋よりずっと広い地域を指した。だから、文献に「打出」と書いてあれば場所はほぼ特定出来るが、「葦屋」の場合は、中世以前だと広過ぎてどこだか特定出来ないそうだ。 明治4(1871)年7月14日の版籍奉還・廃藩置県のとき、それまで幕府の天領だった打出村、芦屋村は兵庫県に属したが、尼崎藩の三条村、津知(つぢ)村は尼崎県下に置かれた。しかしその年の11月には、尼崎県は兵庫県に編入された。 こうして現在の芦屋市域である打出・芦屋・三条・津知の各村は兵庫県菟原郡に属することになった。更に明治22(1889)年に芦屋・打出・三条・津知の4つの村が合併して兵庫県菟原郡精道村が誕生した。 ところが、この伝統ある“菟原”(兎原)の名は、明治29(1896)年に消えてしまった。菟原郡は八部郡と共に武庫郡に合併されてしまったんだ。 兵庫県武庫郡精道村となり、昭和15(1940)年11月10日に武庫郡精道村は芦屋市となった。もはや芦屋の古名・菟原(兎原)の名を知る人は数少ない。なお、兵庫県武庫郡も昭和29(1954)年3月31日に消滅している。 ※ 本ページの骨子は芦屋市史(昭和46年発行)による
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