打出に残る旧西国街道の道標



春日集会所の東にある 芦屋市春日町17
撮影: 1999年(平成11年)10月6日



左 中山 右 西宮
撮影: 1999年(平成11年)10月6日
 京都の東寺口、羅城門のあたりから南西に走ってきた西国街道(本街道)はここで海岸に出た。都から来て、ここで初めて海に打ち出るから、打出の地名がある、との説もある。
 今、海ははるか南だけど、古代の打出の海岸線は阪神電車の線路の辺りだったようだ。

 ここは西国街道・本街道と、難波(大阪)からの中国街道の延長、すなわち西宮からの西国街道・浜街道との交差点でもあった。お地蔵さん(道祖神?)の右の石柱には「左 中山* 右 西宮道」の文字がはっきりと読み取れる。文字はお地蔵さんの側面にもある。

 “中山”とは、二十四番札所中山寺のある宝塚市の中山だ。つまり“中山”って書いてある方向は、西宮市の越水から京都方面に行く道、西国街道・本街道だ。
 西国街道は途中の西宮市の門戸厄神から、西宮街道で宝塚市の小浜(こはま)に至り、そこから中山や、有馬街道の方にも行けた。この道標が出来たころ(いつだか知らないけど)には、旧本街道の役割は西国街道としてより、むしろ中山行きや有馬越えの方がメインになってたのだろう。

 右の“西宮道”の西宮とは、もちろんえべっさんのあたりの当時の西宮の中心地のこと。西国街道は西宮(戎)神社のにぎわいや西宮津の商業的重要性から、広田村→ 西宮町→ 打出村の浜街道が主となった。




道標はこの場所にある
近世初頭の摂津国全図に見える街道
この地図には浜街道は書いてない
(西宮市立図書館所蔵)
芦屋市史より引用 緑字は加筆
左の地図の三叉路(現在)
撮影: 1999年(平成11年)10月6日

 古い地図の地名は結構あて字みたいだ。当時、地元でもこういう書き方をしたかどうか疑問だと思う。芦谷村とは芦屋村だろう。宿火村とは、森具(守具)村の南の夙村だろうか?
浜街道に向かってた道
道標のあるところから浜街道方面に向かうと
阪神電車の線路で行き止まりになってしまう
西宮市弓場町3/芦屋市春日町19  撮影:2002年9月1日


西国街道道標付近の略図
西国街道道標付近の略図
現在は西国街道(本街道)へ向かう道はなくなってるし
浜街道へ通じる道も阪神電車の線路で行き止まりになっている
道標の西には、打出の札場があったようだ


昭和50年の略図
昭和50(1975)には道標のところから北東に延びる道があった
この道が昔の西国街道・本街道なのかどうかは判らないけど…

明治時代中ごろの打出周辺の地図
明治17〜18年測量の地図 (芦屋市立美術博物館提供)
赤字は加筆



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