芦屋の西国街道・浜街道
しかし、17世紀半ば頃に広田村から南に下り、戎神社(西宮神社)のある西宮町へ向かうよう経路が変更された。変更されたというより、みんなが広田村から戎神社回りを好んだのかも知れないな。 ともかく、西国街道は広田村から南に下りて西宮町で尼崎・大坂方面からの中国街道と合流するようになった。合流した街道は西宮神社の南を通り、そこから打出村へ通じるようになった。cf. 消えた本街道(広田村から打出村への本街道) 遅くとも安土桃山時代には、(もしかしたら、もっともっと古い白鳳時代以前から?)大坂−尼崎を経て海沿いに兵庫津(神戸)まで通じる道も出来てたようだ。ちゃんと整備され、便利になったのは尼崎城築城(元和4(1618)年?)以降だともいわれる。要するに、途切れ途切れにあったローカルな道が、必要に応じてだんだん繋がったり整備されたのだろう。 その道は難波津から兵庫津までの全線を中国街道と呼んだり、西宮までは中国街道、それ以西は(西国街道の)浜街道とも呼んだりしていたようだ。どっかにも書いたけど、街道の呼び名は時代により、地方により、目的により、人により違うみたいだ。 さて、打出村まで来た浜街道は、そこで従来の西国街道(本街道)と合流した。西国街道はここで山麓を通る本街道と海沿いの浜街道に2本になるのだ。(江戸時代後期には神戸市内に徳川道というのも出来た)
今は阪神電車の線路に遮られて分岐点ははっきりしないが、芦屋市春日町から西宮市弓場町に向かって真っ直ぐ延びる道を延長すると、ちょうどこの辺りで浜街道(旧国道)と交わるのでほぼ間違いないだろう。 下の明治時代の地図を見てもそうなってるようだ。この当時は阪神電車はまだ走ってなかったから、すなおに本街道の方に行けた。
上の写真が浜街道の分岐点があったと思われる場所だ。ここには堀切川も流れてるので、分岐点としてちょうど良かったのだろう。上に書いたように、分岐点は東から来て、堀切川を打出側に渡り切った川西町15にあったみたいだ。だって、分岐点が川の手前だったら橋が2本いることになるもんね。(笑) ともかく、ここから斜め右に向かうと道標のある本街道との合流点に行く。 本街道は打出村からほぼ真っ直ぐ東に走り、芦屋川の西 300m 付近の茶屋芦屋(芦屋市茶屋之町2)で現在の国道2号線と合流する。cf. 西国街道
浜街道は今の阪神電車の沿いに進むと、やがて阿保親王ゆかりの親王寺の前に出て、そこで現在の国道43号線に吸収される。右の写真の場所だ。 国道43号線の工事が着工される昭和30年以前はこのまま浜街道、あるいは旧国道として神戸まで行けた。我輩もこの旧国道を自転車でえっちいらおっちら神戸まで行ったことがあるぞ。(笑) 西国街道・本街道は参勤交代の大名行列が通るなど公の道として使われ、浜街道の方は庶民の生活道路として利用されたらしい。 お上の整備した本街道があるのに、わざわざ浜街道もあったってことは、必要があってのことだろうから、当然、下々の浜街道の方が賑わったろうな。 特に豊臣秀吉が堺の商人を大阪に移し、神戸が大阪の外港としてその地位を築いて以降、陸路の浜街道もなおさら賑わったろう。 おっと、本街道の方に向かわず、浜街道を真っ直ぐ神戸へとなると、打出村は素通りされることが多くなったかも知れないぞ。(笑) 本街道の方は国道2号線が出来る前の昭和以前は、ある程度幹線道路としての役割があったかも知れないが、2号線開通以降はすっかりマイナーな道路になってしまった。 一方の浜街道は昭和になってからも旧国道としてバスが走ったりして、便利な道路として活用された。しかし、国道43号線開通の昭和38年(1963年)以後、西宮−打出間の浜街道(旧国道)は、すっかり裏道になってしまってる。 |