親 王 寺


親王寺の入口
芦屋市打出町3  撮影:2004年 2月21日

親王寺の南側の西国街道・浜街道
親王寺の南側の西国街道・浜街道
この西で国道43号線と一緒になる
芦屋市打出町3  撮影:2004年 2月21日

親王寺所蔵の銅鐸
親王寺所蔵の銅鐸
(芦屋市史より)

 親王寺(しんのうじ)は阪神・打出駅の南東で、入口は国道43号線沿いにある。もっと正確にいえば、下の写真のように旧国道、旧西国街道浜街道沿いにある。旧国道はここで右側の国道43号線と一緒になるのだ。下の写真の道路の左手が親王寺だ。

 承知11年(884年)に在原業平の父君、阿保親王(あぼしんのう)のお屋敷の跡に建てられたお寺だそうだ。もともと、このお寺は宗満寺と言った。
 当時は打出の浜がすぐ近くだったろうけど、ここで親王が海水浴を楽しまれたかどうかは知らない。(笑) ただ、打出浜の景色はお気に召してたらしい。

 天文24年(1555年)、山論(土地争い)から芦屋庄の住民が逃げてしまうという事件が起こった。永祿3年(1560年)に住民は戻って来たけど、逃げた先で浄土宗に改宗してた。で、寺を浄土宗の寺とし、名前を親王寺と改めたとのこと。親王寺は知恩院の末寺になるそうだ。

 なお、阿保親王のお墓はこの北北西約七百メートルの翠ヶ丘町(なぜか親王塚町じゃない (笑)に“親王塚”としてある。
 寺は以前、この阿保親王塚を管理していたので、阿保親王塚から出土したと言われる銅鐸や三角縁神獣鏡などを寺宝として所蔵している。
 しかし、銅鐸は実際は親王塚じゃなく、それよりより南の楠町の堂ノ上で出土したものらしい。

 親王寺は平成5年の阪神・淡路大震災で非常に大きな被害を受けたので、平成11年(1999年)の現在も修復工事が続いている。いまだに入って左手の本堂も仮本堂だ。


 そうそう、この親王寺の沖を通過する船は、必ず帆を下ろさなければならないって言い伝えがある。
 そのまま通ったら阿保親王の御魂が無礼を怒り、たちまち海鳴りがし、海が荒れて船が転覆するそうだ。これを“打出沖の海鳴り”と言う。ヨットに乗る人は気を付けよう。

 なお明治5(1872)年頃、打出初の学校である、打出村尋常下等小学校が、この親王寺の庫裏(くり)を仮校舎として開校した。

不退寺
奈良の不退寺
撮影:1999年
 ついでながら、阿保親王と在原業平が一緒にお住まいだったと言われる奈良の不退寺に「阿保親王坐像」がある。またこの不退寺には、業平作と伝えられる「聖観世音菩薩立像」もある。








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