阿 保 親 王 塚 古 墳


阿保親王塚古墳

芦屋市翠ヶ丘町11  撮影:1999年11月14日
阿保親王塚古墳案内板
芦屋市翠ヶ丘町11  撮影:1999年10月7日


 阿保親王塚古墳のある場所は阪神・打出駅から北へ5丁、国道2号線山打出交差点から3丁だ。昔からの案内の道標にそう書いてある。(笑)

 平城天皇の皇子で、在原業平の父君、阿保親王(あぼしんのう)の墓所とされるところだ。親王は承和2年(842年)にお亡くなりになってる。

 以前は畑のまん中にあったので、遠くから古墳全体の様子がうかがえたようだが、今は住宅地の中に埋もれてしまったような感じだ。今はここから海なんて全然見えないけど、大昔なら打出の浜が見渡せたかも知れない。
 今だと見晴らしのいいところからでも、漁り火の代わりにシーサイドタウンの明かりが見えることになる。(笑)

 親王塚は4世紀前半の円墳だそうだ。古墳が造られた時期と阿保親王が亡くなった時期が500年近くずれてるので、古い円墳が再利用された、と考えられてる。
 ここは今、宮内庁の管轄になってて中には入れないが、近所の幼稚園児だけ、特別にどんぐり拾いをさせてもらえるらしい。残念ながら拙者はこの近くの幼稚園に通ってなかったんで、中に入ったことはない。(笑)


 JR芦屋駅の南側に業平町(なりひらちょう)って地名が残ってるが、阿保親王のご子息、伊勢物語で有名な在原業平氏は、もしかしたらその辺にお住まいだったのかも知れない。

 けど、業平町で「在原業平」なんて表札、見掛けたことないぞ。(笑) マジ、業平の屋敷跡が残ってるなんて、聞いたことない。



なり平屋敷
芦屋市美術博物館提供 摂津名所図絵より


 おっと、寛政8年(1796年)の「摂津名所図会」に“なり平屋敷”の文字が見える。けど、芦屋川西岸になってるなぁ。今の業平町じゃない。ま、実際のところは諸説があり、はっきりしないみたいなんだ。


三重県青山町

大阪府松原市

 ところで、芦屋市立美術博物館でお話しをうかがってると、芦屋市民にとってショッキングな話が出て来た。阿保親王塚は芦屋にだけじゃなく、他のもあるとおっしゃるのだ。
 三重県青山町と大阪府松原市にも阿保親王塚と伝えられる古墳があるそうだ。芦屋の阿保親王塚は、明治時代の教部省が阿保親王塚と認定しているが、青山町の親王塚も明治9年3月10日に認定され、現在も宮内庁の管理にあるそうだ。

 ???だけど、青山町の親王塚は芦屋や松原のように平城天皇の皇子ではなく、第11代垂仁天皇の第9皇子「息速別命=阿保親王」とされてるそうだ。「息速別命」の姉は「日本武尊」に草薙の剣を授け、伊勢神宮を奉鎮した倭姫命。
 同じ名前でも全く時代が異なるとのこと。青山町の親王塚の情報に関しては三重県青山町在住の方から情報を頂いた。有り難とうございます。(2004/05/16 追記)

 親王は当時の習慣に従って乳母の名前の“阿保”を名乗っておられるはず。更に阿保親王の母上は渡来系の葛井(ふじい)氏の出だそうだ。なんのことかと聞いてると、“あぼ”は“青”に通じるらしい。三重県青山町の阿保親王塚の“阿保”は“あお”と読まれるとのこと。

 “青”は雄略天皇の時、部下を引き連れてやって来た渡来人のリーダーだそうだ。金属精練にたけた一族だったのではないかとおっしゃる。親王塚古墳の近くからは銅鐸が出てるし、近くには金津山古墳がある…。
 阿保親王塚がある芦屋は勿論、葛井氏の本拠地・藤井寺市に近い松原市や阿保氏の出身地とされる三重県の青山町も渡来人と密接な関係がある。

 “阿保”の地名は上に挙げた松原市、三重県青山町の他に、姫路市、九州や埼玉県などにもあるそうだ。更に日本全国の阿保・青・粟などの地名を調べると無数といっていいほど出て来るとのこと。更に話は壮大になってくる、中国や朝鮮半島にも“青”のつく地名がたくさんあり、それらの分布から“青”の出身地は山東省だろうか?と仰せだ。


芦屋市立美術博物館刊:“なりひら” Vol.24, Vol.27
「阿保は青か」「続・阿保は青か」「続続・阿保は青か」−小田博氏 参照




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