大 楠 公 戦 跡 碑


楠町にある 大楠公戦跡碑
芦屋市楠町14  撮影:1999年12月21日

撮影:2006年 1月 5日

 碑は打出の東の端、国道2号線の北側にある。建武3年(1335年)2月10〜11日の楠正成と足利尊氏の打出合戦のとき、楠正成がこの辺りに陣を張ったってことだ。

 碑はこの地に広大なお屋敷をお持ちだった、実業界にゆかりの深い斎藤幾太氏(1859-1938)が建てられたものだ。ここには幾太氏の胸像もあったが、戦時中に供出されてしまった。
 斎藤幾太氏は、明治38(1905)年に打出観音堂(神宮寺)を会場に「打出夜学校(うちでやがっこう)」と呼ばれる教育施設を開講した方としても知られている。

 戦いの中心は打出浜から西宮浜にかけてだったらしいが、楠正成が陣を張ったのは“まさにここだ”って確証はない。1999年(平成11年)暮れから2000年春に掛けての金津山古墳の発掘調査で、楠正成が陣を張ったのは、この 200m ほど南にある金津山古墳だとも考えられるそうだ。

 打出は交通の要衝であったため、この頃たびたび戦いで荒らされてる。西宮浜から打出浜は軍事的にも重要だったんだろう。
 特に足利尊氏は打出合戦のあとも、1351年に足利直義と打出浜で戦ってる。このときの戦いは打出浜から御影浜にかけて、16度もとっては返しをやったようだ。

  なお、楠正成は打出浜合戦の3ヶ月ほどあとに、九州から反撃に出てきた尊氏と神戸の湊川で再び合戦になり、敗れて戦死した。それにしても、この楠正成って人は有名なわりには素性のはっきりしない人なんだね。だいたいは大阪の河内方面の人らしいって事になってる。


昭和50年(1975年)頃の楠町の地図
(芦屋市史より)
赤字は加筆

 それより、なんて書くと楠正成公に失礼かも知れないけど、ここの古い地名は、この碑を南西の角にして“堂ノ上”と言った。阿保親王(あぼしんのう)の別荘(お堂)があったのでこういう地名がついたとの伝承がある。

 実は、堂ノ上からは銅鐸が発見されてる。その銅鐸は親王寺に置いてあって、阿保親王塚から発見されたことになってるんだけど、資料を調べるとほんとうはこの堂ノ上かららしい。
 もしかして、堂ノ上にあったという親王の別荘あとから発見されたんだろうか? ただ、お堂のあとも銅鐸の出た場所も、堂ノ上のどこだかは判らない。

 なお、大楠公戦跡碑のすぐ南西の春日町7からは、旧石器時代や縄文時代の遺跡が発掘され、堂ノ上遺跡第4地点と名付けられている。





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