堂ノ上遺跡と若宮遺跡
堂ノ上遺跡第4地点
芦屋市春日町7
撮影:2004年 2月21日
同上 お医者の多いビルだ
撮影:2004年 6月24日
春日町の
江尻川
芦屋市春日町7 撮影:1999年12月4日
打出に約2万年前、後期旧石器時代の住居の痕跡があったのだ。場所は春日町7で
阪神打出駅
の北東約 350メートル、
打出天神社
の東北東150メートルほどのところ、
大楠公戦跡碑
のすぐ南西になる。
上の写真の正面、奥のあたりだ。たぶん、このあたりを旧石器人も縄文人もうろうろ歩き回ってたろう。北側の
国道2号線
の方に回ってみると、調査されたと思われるところには大きな建物が建っていた。
遺跡の名前は
堂ノ上遺跡
第4地点と言う。ここの旧小字名は小松原なんだけど、
銅鐸
の出た堂ノ上と隣接してるので、同じ遺跡として扱われるのだろう。
2万年と言えばまだ氷河期で気温は今より7度ほど低かったようだ。つまり、打出 のこのあたりでも、夏は30℃以上になることはめったになく、冬の朝はたいてい氷点下だったろう。
海面も今より110メートルほど低く、大阪湾は歩いて通れたらしい。芦屋の地にもナウマン象やヘラジカなんかがいて、ここに住んでた打出の住人もそれらの動物を食料にしてたかも知れない。
春日町7からは、旧石器時代の石器や石片、それに拳大(こぶしだい)の石をたくさん並べた生活の跡が見つかったそうだ。芦屋市内では旧石器代の遺物は
岩ヶ平
からも出てるけど、住居跡は春日町のここが市内最古になるとのこと。
また、ここからは縄文時代前期から後期(6000年〜2500年前)に掛けての川筋の跡がたくさん見つかったそうだ。
川って言えば、ここには北西から南東に走る幅1mほどの
江尻川
があるけど、当時は北東から南西に流れてたようだ。もちろん数千年の長い年月の話だから、何度か川幅や向きが変わってる。だから幾筋もの川のあとになってるんだ。
で、ここの川跡からは縄文土器と一緒に、たくさんの巨木や木の実が出てる。巨木は石の斧で切ったあとがあるそうなんで、なんかの目的に使ったんだろう。中には直径40cmほどもある木もあったらしい。大きな建物でもあったんだろうか?
木の実は水分でパックされてて、何千年も前のが真新しい感じで出てきたそうだ。種類はドングリや松ぼっくりだったそうだから食料にでもしたのかな?
芦屋市若宮町2
撮影:1999年12月3日
打出からは、縄文時代の遺跡がもう一つ見つかってる。若宮町2の
若宮遺跡
だ。場所は
阪神打出駅
の西 150m、
阪神電車
の線路のすぐ南だ。今は市営住宅が建ってる。
市営住宅が建てられる前の平成9年(1997年)にこの場所の2ヶ所で発掘調査が行われ、そのうちの1ヶ所からは縄文時代晩期(約2500年前)の土器が出てきた。芦屋で縄文時代晩期の土器がまとまって出土したのはこれが初めてだそうだ。
また、その場所のすぐ北からは弥生時代中期初頭(約2200年前)の竪穴住居跡も出て来てる。縄文人が稲作文化を知り、ここに定住したらしいのだ。縄文・弥生時代には海岸線は今よりずっと北だったそうだから、当時ここは海辺の集落だったのだろう。
更に、ここには鎌倉〜室町時代の田畑があったことも判ってる。牛を使って耕したらしく、牛の足跡なんかもくっきりと出てきたそうだ。ここの近くには
小松原遺跡
や
金津山古墳
、
打出小槌古墳
もあるしするから、打出には縄文時代から今までずっと人が住みつづけていたことになる。もしかしたら旧石器時代からずっと、かも知れない。
打出駅周辺の遺跡
(芦屋市広報課発行「プロムナード芦屋」裏面の「芦屋市全図」を流用)
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