小 松 原 遺 跡
芦屋市春日町3-19
撮影:1999年11月7日&12月4日
旧夢路いとし邸
芦屋市春日町3-19(芦屋市打出春日町159番地)
撮影:昭和38年(1963年)
昭和7年 精道村明細図 (芦屋市史より)
赤字は加筆
遺構平面図
平成2年1月29日 芦屋市境域委員会
小松原遺跡発掘調査略報より
右のビルの建設の前、平成元年(1989年)12月から翌年1月に掛けての発掘調査で弥生時代後期などの遺跡が発掘された。
弥生時代後期には、このあたりに溝(濠)を掘って動物などの侵入を防いだ環濠集落があったことが判ったそうだ。溝の幅は5mほど、深さは1m強だったらしい。水でも張ってあったのだろうな。
また、その上の地層からは奈良時代〜平安時代〜鎌倉時代〜中世後半の遺物が見つかってる。
つまり、弥生時代後期から現代まで、
ずっと建物があったかどうかは別として、
人がこの土地を利用してたみたいだ。
ここの昔の地名は下の地図のとおり“
字小槌
”だ。小槌と小松原との区切りは、打出天神社の旧参道だったのだ。しかし、なぜかここの遺跡は小槌の東の小字名をとって「小松原遺跡」と呼ぶそうだ。
遺跡の名前は「(打出)小槌遺跡」とかがいいな。もし、他とダブるなら「小槌一番遺跡」だ。(笑) ま、今さら変えられないだろうけど。
なお、第2次世界大戦中の昭和18年(1943年)から昭和39年(1964年)までここ、つまり、右のモノクロ写真の家に住んでた人が「ここの地名は前は小槌1ノ1やったのに、勝手に打出春日町158された」とぶつぶつ文句言っていた。
もともと“字小槌”だったので昭和15年(1940年)に芦屋市になったとき小槌町になっただけど、戦後にでも、幅の広い西の道を区切りにして春日町にされたのだろう。ちなみに旧西国街道・本街道が広げられたとき、地番は 158 から159 に変更された。
場所は
阪神・打出駅
の北50mほどで、
金津山古墳
のすぐ西南西、
打出天神社
の南、100m少しのところだ。
金津山古墳の築造は 460年ころだそうだけど、打出のこの辺りには更に古くから人が住んでいたことになる。
すぐ近くの
堂ノ上遺跡や若宮遺跡
からは旧石器時代や縄文時代の遺跡も発掘されているから、打出には縄文時代、あるいはそれ以前から人が住みつづけたことになる。
なお、このあたりの土地は13世紀から15世紀の鎌倉時代から室町時代に掛けての時期、平坦に削り取られたり地均しされたそうだ。
金津山古墳の前方部が削られたり
打出小槌古墳
が壊されたのもこの時期だろうってことだ。なんか打出で大規模開発があったのかも知れないな。
以前、ここにもとあった家の庭で遊んでて、茶碗のかけらや貝殻なんかが土の中から出てきた覚えがある。
今から考えてみると、近代日本では割れた食器や貝殻を庭のすみに捨てる習慣があったと思えないので、かなり古いものだったのかも知れない。ただ、弥生式土器みたいな素焼のは見た覚えがないな。
もとそこに住んでた人に確かめたら「そやねぇ、確かに出てきた。そやけど、あたしはそんなもん捨てへん。その前に住んではった人も、あの家を建てはった老夫婦で、ちゃんとした人やったし…」
「ゴミ集めなんか明治時代からあったはずや。みんな家の前にゴミ箱置いてた。そやから庭になんかに、もの捨てへん」「戦争中?捨てるもんなんか、あるかいな。(笑)」とのことだった。だから、土の中から出てきたものは江戸時代、あるいはそれ以前の遺物だったのかも知れない。
そうそう、今のビルが出来る前、上から2番目のモノクロ写真に写ってる家に、関西漫才界の大御所、“いとし・こいし”の夢路いとし氏(2003年9月に78歳で逝去)がある時期、20年近く住んでおられた。当時、打出駅近くで“いとっさん”を時々見掛けたもんだ。
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