打 出 小 槌 古 墳


小槌古墳の碑
打出小槌古墳についてのプレート
芦屋市打出小槌町10
撮影:2004年 2月18日

 名前のとおり、阪神・打出駅の北東、打出小槌町のマンションの敷地内に碑がひっそりと建っている。場所は下の地図のとおり、金津山古墳(黄金塚)のわずか100mほどのところだ。

 昭和61年(1986年)、民間マンションの建設中に何種類かの埴輪や葺石などが出土したことから、この辺りに方墳あるいは前方後円墳の一部があったと考えられる、程度の確認しかできなかった。
 その後、平成11年(1999年)7月から8月に掛けて、阪神大震災(1995年)で壊れた住宅跡が芦屋市教育委員会の手で発掘調査された。1986年には打出小槌町10-14だったが、1999年にはその西隣の10-16 あたりの調査が行われた。

 ついでに書いておくと、公式に発表される記録なんかでは、場所は本籍なんかを書くときの地番で書いてあるけど、我輩は、やや不正確になるかも知れないけど、住居番号で書く。
 その方が普通に地図を参照するとき、判りやすいからだ。ってより、拙者の持ってる地図は全部住居番号で書いてあるし、建物に貼ってあるのも住居番号なんだ。だから、自分で場所を確認するときは住居番号しか判らないんだ。(爆)

 で、発掘の結果、打出小槌古墳はなんと全長90mほどもある前方後円墳らしいことが判ったそうだ。わずかの距離をおいて、この狭い打出に2つの前方後円墳があったんだ。古墳は5世紀後半から末ころのものらしく、金津山古墳より20年ほど新しいそうだ。


打出小槌古墳の位置図
芦屋市西芦屋町にての説明のパネルより  撮影:1999年11月3日
赤字は加筆


打出小槌古墳の前方部
芦屋市西芦屋町にての説明会配布資料より


 新しく発掘されたのは左の地図の四角く囲まれた場所だ。その右側(東側)は既に昭和61年(1986年)に発掘されてて、なにやら大きな古墳があることが判ってた。

 この場所からは北西に向かう、幅8〜15mの周濠があったことが判った。また、周濠のあたりからはたくさんの埴輪や葺石(ふきいし)が出てきた。で、これら発掘物などから、5世紀の終ころの古墳だと判ったわけだ。

 下の写真、右側の3枚が打出小槌古墳から出てきた二つの円筒埴輪だ。実は、この二つの埴輪、同じ人が作ったことが判ったそうだ。
 まず、右下の写真のように、作者のサインがしてある。ふにゃと曲がった線が書いてあるが、これが作者のサインだ。文字が全然一般的でなかった時代に、こういう風に自分のアイデンティティーを残したんだね。
 他に、同じ道具を使ってること、残ってる指紋がおんなじだってことから、同じ人の作品だってことが判るそうだ。

 ここからはこうした円筒埴輪だけじゃなく、鳥の形をした埴輪のシッポの部分なんかも出てる。



鞍塚への細道
鞍塚あと
芦屋市打出小槌町10
撮影:1999年11月7日
芦屋市西芦屋町での現地説明会にて
 撮影:1999年11月3日

 打出のこの付近では、鎌倉時代から室町時代に掛けての時期、なにか開発が行われたらしく、打出小槌古墳もその時に壊されたようだ。だから、近世以降、打出小槌町にこんな大きな古墳があったなんて知られてなかった。
 ただ、その痕跡じゃないかと思われる場所がある。左側の写真の場所、“芦屋小槌住宅”の南だ。ここは“鞍塚”(くらづか)という名で、阿保親王の鞍を埋めた塚があったとの言い伝えがあるところだ。
 現在は打出小槌町の一部になってるが古い地名は“鞍塚”と言った。打出字鞍塚だ。でも、今はただの平地で塚もなく古墳らしい感じは全然しない。斜めになった路地を入ってゆくと、いきなり左下の写真のような場所に出て、行き止まりになってしまう。お不動さんがあって、その脇にお地蔵さんがいっぱいある。

打出小槌古墳
 「けったいな場所や」と言うことで、「打出のだんじりと歴史がわかる本」にも、“打出ミステリーゾーン”として写真入りで紹介されている。「ここはどこでしょう?」「御存知の方はお知らせください」と書いてある。地元の人向けの本にこう書いてあるくらいだから、地元の人にもほとんど知られてないってことになる。我輩は知ってたけどね。(笑)

 で、左上の写真の細い道なんだけど、これってどうやら周濠の一部みたいなんだ。説明会の資料にも「周濠を推定される旧道」って書いてある。“鞍塚”の場所は打出小槌古墳の後円部の北東の縁にあたるところになるようだ。

 もしかしたら、古墳を壊したとき「ここに古墳があったよ」ってことで、この場所を残したのかも知れない。あるいは副葬品の鞍が出てきて「これ、阿保親王の鞍やで」ってことで特別に塚を作ったのかも知れないな、と想像してみた。
 しかし、この鞍塚と呼ばれてるところを調査しても、塚などがあった痕跡は全くないそうだ。しかも昔の字名ではここのすぐ西、すなわち上の図の円墳のあたりは「字鞍塚」だけど、今、鞍塚と呼ばれているところは「字小槌」、と妙な具合になる。
 実は、「鞍塚」はその昔、「坐塚」と書き「(偉い方が)おわす塚」を意味し、円墳そのものを指したのではないか、との説もある。

 そうそう、阿保親王に関して、もう一つ塚があった。“笄(こうがい)塚”っていう。場所は芦屋市楠町16だ。大楠公戦跡の碑のあるところの北東200mくらいのところで、阿保親王の別邸があったって場所に近い。もともとは親王寺の領地で、昔の小字名も“笄塚”って言う。
 なんでも阿保親王の笄(髪をかき上げるときの道具で、髪飾りにもなるそうだ)を埋めたって塚だそうだ。どうして阿保親王のお道具をばらばら、別のところに埋めるんだろう?まとめてどっかに一緒に埋めればいいのにな、って個人的には、思うぞ。(笑)
 たぶん、なんか有り難たそうなこととか物があったら、打出の人は阿保親王に結びつけてしまうんだろう。それだけ阿保親王がこの地にいらしたってことを打出の住民は誇りにしてたんだと思う。


 打出で見つかってる中期古墳は、時代的に親王塚古墳金津山古墳→打出小槌古墳と繋がる。しかも、だんだん大規模になってるんだ。打出に大きな勢力を持つ豪族が長年にわたっていたのか、あるいは芦屋に住んでても墓は芦屋川流域よりも水害の少ない打出の地にしたのか…。

 古い時代、おそらく中世頃まで、この南の街道を通る旅人は、打出の清々しい海辺を目にし、二つもの大きな古墳を見ながら通り過ぎていったんだなぁ…。


 打出の地はこの他にも、わりに古墳があったとの伝承の多い場所だ。明治38年(1905年)に開通した阪神電車・本線を通す工事のときにも、いくつかの前期古墳らしい古墳、あるいはそのあとが壊されたと聞く。
 親王塚古墳の西にはもっとたくさんの古墳があったようだし、打出天神社のすぐ北や、金津山古墳のすぐ東にも古墳があったらしい。親王塚古墳と金津山古墳では百年以上のギャップがあるし、失われてしまった前期古墳や中期の大規模な古墳が他にもあったかも知れない。





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