広田村から打出村への本街道


明治17〜18年測量の地図(芦屋市立美術博物館提供)
明治17〜18年測量の地図 (芦屋市立美術博物館提供)
赤字は加筆



 西宮の西国街道は、17世紀の半ば頃には、広田村から越水(こしみず)村→森具(もりぐ)村→打出(うちで)村のルート(本街道)はすっかりマイナーになってしまった。
 代わりに、広田村から西宮町へ向かい、そこで中国街道(浜街道)と合流するルートとなった。

 だから、右の明治時代中ごろの地図には、西宮の越水→森具から打出へ通じる道はもはや見当らない。
 で、この失われた本街道を捜してみることにした。

 右の地図によると、京都からの西国街道は越水まで行かないで、今の西宮スポーツセンターの角より更に手前を南に折れるのが普通だったみたいだ。もっとも、昔の西国街道は今の国道171号線よりもう少し北だったけど。
 てっきり越水から札場(ふだば)筋を通るのがメインだと思ってたら、芦屋市立美術博物館で「違うんです。もっと東」って教わった。



昔は西国街道を京都から来て、ここを左に曲がって
西宮の市街、西宮えびすに行った

西宮市河原町4  撮影:1999年(平成11年)12月16日


西宮公共職業安定所
西宮市青木町2  撮影:2000年4月13日


西宮町中心部の地図
広田から南下して来た西国街道は東からの中国街道と交わっていた
明治17〜18年測量の地図 (芦屋市立美術博物館提供)

 ブルーの道標がある方にまっすぐ行くと昔の本街道の方向だ。で、本街道をそれて、西宮の中心地に行くためには、札場筋でもその東の西宮スポーツセンターのある青木交差点からのバス道でもなく、もう一つ東の道を斜めに左に曲がったようだ。左の写真で車が出て来る道だ。いつの頃からか、西国街道はこっちの方がメインになってた。
 上の書いたように、昔の西国街道は実際にはもう少し北だったけど。

 河原町から左折する道を通ってみたら、“こどもセンター”なんてのがあり、さらには右の奥、バス道との中間に“ハローワーク”って看板が見えた。西宮の職安だ。ここの職安の管轄は、西宮市、芦屋市、それに宝塚市だそうだ。
 不況が続く中、職安は満員だろう。けど、ベンツで送ってもらって職安に駆け込んでゆく人がいたのには驚いた。(笑)

 阪急のガードを越えて南に下り、中須佐町に入ると一方通行の狭い道になり、JR西宮駅の手前で東川に沿って右に曲がり、JRのガードのところで青木交差点からのバス道と合流する。

 ここを東側沿いにずっとずっと南に下って、西宮神社の東門(赤門)の東、西宮市本町2辺りで尼崎・大阪方面からの中国街道と合流してたとのことだ。
 江戸末期の様子を残してるだろう明治時代中頃の地図を見てもだいたいそんな風になってるように見える。

 西宮市史第一巻 p.70 によると「ところで(慶長年間=17世紀初頭の)この絵図には越水村と西宮町とは細い線で結ばれている。(中略)しかも、この道路のほかには、後年の西国街道筋である西宮町−中村−広田村の道筋は記入されていない」との記述がある。

 更に、「しかし、慶長より八〇年くだった貞亨元年(1684)五月の『西宮町浜地図』には西国街道は西宮町の本町筋を通っており、同三年の広田西宮絵図には朱色の太線で広田から中村を経て西宮町への道筋が描かれ、他方広田から越水への道筋は細い線で描かれている。おそらく元和・寛永のころにはいわゆる西国街道としての道筋が整備されたのであろう」と書いてある。

西宮市内の西国街道の変遷
明治17〜18(1884〜1885)年測量の地図
 (芦屋市立美術博物館提供)に加筆
便宜上、昔の街道を明治時代の道路に重ねて書いているが
道筋は微妙に変わってる可能性がある
 上記を明治時代中ごろの地図上に示すと左のようになる。西国街道は社会情勢の変化により、時代と共にその道筋を変え、越水から南西へ斜めに下りる道は17世紀には街道として利用されなくなったようだ。
 だから、それから250年以上も経った明治のこの頃には、ほとんどその痕跡を留めていないのだろう。

 では、そのほとんどなくなってしまった本街道の痕跡を捜してみよう。この明治の地図が描かれてから100年以上経ってるから、痕跡は更に少なくなってるだろうけど…。
171号線&札場筋付近
現在の国道171号線“西国街道”
再び越水町から南へ下るようになってる




斜めに走る道は旧本街道の跡かな?
 まず、震災前、西宮市弓場町から屋敷町の東部に入る、幅1間ほどの斜めに走る道があったんだけど、もしかしてそれが本街道の痕跡かな?とも思った。下の写真、白い車が停まってて、震災後は行き止まりになってる道だ。
西宮市屋敷町15  撮影:1999年10月22日

 また、西宮市郷免町(ごうめんちょう)の阿弥陀寺の北、須佐之男神社などの北側にも、越水方面を向いた怪しい道がある。(笑) その昔は、打出村から森具村を経て越水村、広田村に通じる道がなん本かあったのかも知れない。



御茶家所町 大手前大学の東の方にある斜めの道が
越水と打出とを結ぶ西国街道(本街道)の一部だったかも知れない
 更に、西宮市郷免町の西、大手前大学付近は御茶家所町(おちゃやしょちょう)という地名だ。大手前大学の南にある道は北東に向かい、夙川(しゅくがわ)まで通じている。
 夙川を越えて延長すれば確かに越水の方向だ。越水から西に向かい、夙川の東岸を南下して現在の安井町こ出て、そこで夙川を渡ったのかも知れない。

 また、もしかしたら芦屋市茶屋之町同様、御茶家所町付近に西国街道を行き交う旅人のための茶屋(茶家)があったのかな? 西宮市の御茶家所町と芦屋市の茶屋之町との距離は、江戸時代の一里(約4Km)ほどになる。…とも考えた。

 西宮御茶家所郵便局(旧森具郵便局)と大手前大学のページに、申し合わせたように「昔、西国国道と中国街道が出会う地点の宿場町で守具(森具)と呼ばれたところでした。今は住宅に囲まれた閑静な地です」と書いてある。

 “西国国道”という耳慣れない記述のしかたまで同じだ。出典は明らかにされてないが、おそらく何かの資料にそのような記述があるのだと思う。だとしたら、旧西国街道・本街道が御茶家所町を通ってて、しかも中国街道(浜街道)との合流点があったってことらしい。

 そう言えば、古くからの森具の住人に「掬水アパートのことろに古い道標があった」と聞いたことがある。その道標が、あるいは西国街道と中国街道との合流点を示す道標だったのだろうか?
 掬水アパートの場所は郵便局の東の方、上の地図の印のところだったように思う。アパートが出来る前は田圃だったが、我輩は道標は見たことない。あ、画家の須田剋太氏のお宅もすぐ近くだったなぁ…。当時、須田画伯は子供に絵を教えていらした。

 拙者は“掬水アパート”と記憶しているが“掬水荘”だったかも知れないし、“掬水”じゃなく“菊水”だったかも知れない。何しろ昭和30(1955)年頃の記憶なのであいまいなんだ。
 蛇足ながら、森具郵便局の前には国道を行く牛馬のための水飲み場があった。確か、ライオンの口から水が出るようになってたぞ。



明治17〜18年測量の地図
 (芦屋市立美術博物館提供)

破線・点線は一部、等高線や区切り線の
可能性もある
赤字、赤線は加筆

 左の地図に引いた赤線が旧西国街道・本街道の名残ではないかと思う。しかし、この地図では西宮神社からの中国街道がどこだったのかは判らない。

 2002年8月30日に西宮市役所・市史編集室からファックスでお送り頂いた「町名の話」の“御茶屋所町”の項には「(広田、西宮)両神社の神輿は、当時西国街道と中国街道が合流したこの地で合わさり、供奉の供ぞろえをしたという。ここで行装を整えつつ茶の一服でもしたのか、かつては町名の由来ともなった御茶屋所と称する小社があったという」との記述がある。文脈からうまく読み取れないが、“当時”とは、平安時代以降、戦国時代ころまでらしい。

 これによると、西宮神社付近の中国街道(浜街道)から御茶家所町に通じる道もあったことになる。
 してみると
  1. 昔、西国街道が京都−広田村−越水村−森具村−打出村経由だったころ
    森具(御茶家所町)で西国街道と難波津からの西宮神社経由の中国街道とが交わってた。
    もしかしたら、葦屋駅(あしやうまや)は森具にあったかも知れない。
  2. その後、西国街道は17世紀に(当時の夙川東岸を南下する?)越水→西宮神社が主流になり
  3. 更に広田村−西宮神社のルートに変わり
    西国街道と中国街道との合流点は今の西宮市与古道町になった
  4. 広田−越水−森具−打出のルートはマイナーになった
  5. 西宮神社から森具までの道は重要でなくなったので使われなくなった。
  6. 西宮神社から来て再び本街道に戻る場合は、打出村で道を変えた
 こういうことになるかな?
 
森具の2重地図
上の明治時代の地図と
昭和50(1975)年の西宮市の地図とを重ねてみた
・・・だいたいだけどね(笑)
 さて、右のように古い地図と昭和50年の地図とを重ねてみた。両方の地図の縮尺と傾きとを合わせるには、JRの線路と浜街道(阪神のすぐ南の旧国道)とで見当をつけた。
 そうすると、夙川西岸から南西に下り、郵便局の南に達する道があったのが判る。今はこの道は途中から国道2号線と平行になり、大手前大学の南に通じているが、明治時代には郵便局の南に向かってたんだぁ…。

 これが旧西国街道・本街道だったのだろうか? そうだとしたら、道標があったらしいのは郵便局の東なので、その辺、今 AOKI の南側の国道2号線北側辺りで西国街道と中国街道とが交わっていたのだろう。(森具局の“具”の右あたりかな?)
 また、昔郵便局の前にあった牛馬の水飲み場も西国街道・本街道沿いになるので、水飲み場は案外古い歴史を持っていたのかも知れないな。

 御茶家所町を下って来た本街道は屋敷町と郷免町の間に達してたみたいだ。ここまで来ると、上に書いた屋敷町15の細道、そう昔“泉山さん”があったところの道(中央やや左よりの赤線)は、西国街道のもう一本南の道だったらしいって見当がつく。
 屋敷町から芦屋の打出へは、ほぼ今の国道2号線を通り、西宮市弓場町8にある溝(江尻川?)に沿った斜めの道を下りたのかも知れない。

 ただし、重ね合わせた地図同士の縮尺その他の誤差があるから、上記は必ずしも正確ではない。「まあ、だいたいそんなところかなぁ」程度にお読みいただきたい。(笑) “泉山さん”のところの道もだいたい合うので、それほど大きくは違ってないと思うけどね。

御茶家所町4の AOKI
この辺に西国街道と中国街道との
合流点があったのだろうか?
西宮市御茶家所町4  撮影: 2002年9月5日
 夙川東岸−越水の道がはっきりしないが、夙川の位置がここ百年以上同じだからって、その前の何百年もの間同じだった、と考えない方がいいかも知れない。もちろん、西岸に関しても同じだけど…。

 芦屋市史(昭和46年発行) p.204 には、延長5(927)年12月に完成した“延喜式神名帳”は、西宮神社(当時の大国主西神社)を菟原郡の中に記していることから、菟原郡と武庫郡との郡界は西宮神社の東側、今日の夙川より 700m ほど東にあったと推定する必要があり、夙川河道の変遷を忘れてはならない旨の記述がある。
 早い話、「西宮神社は当時の武庫郡のはずなのに、10世紀には菟原郡になってる。当時は境界の川、夙川の流れはもっと東にあったからだろう」ってことだな。

 なぜ、越水→森具から打出へ通じる旧本街道がマイナーになったか? たぶん、西宮戎神社のにぎわいのセイだと思う。しかし想像をたくましくすれば、ある時期、今よりもっと東を流れてた旧夙川が氾濫して、一時期、越水城のすぐ西を渡ることができなかったじゃないだろうか?
 それで西国街道はしかたなく越水で南下する道筋に変更されたとか…。そんな気もする。


【蛇足】

 今も打出と森具とは簡単に往来出来るが、明治時代の地図を見ても森具と打出とを結ぶ道路は何本もあったようだ。むしろ、川向こうの西宮町との道筋より多いように見える。
 森具は今でこそ行政区分は西宮市だが、明治22(1889)年の市町村制度の施行の時には西宮町ではなく、広田村、越水村、中村などと併合して武庫郡大社村となったんだ。森具は西宮町とより、昔の本街道の広田−打出ラインとの方が繋がりが強かったのかも知れない。


近世初頭の摂津国全図に見える街道
(西宮市立図書館所蔵)
芦屋市史より引用 緑文は加筆
 ついでに森具の地名の由来だが、森具はその昔、“守具”の字が当てられていたので、古くは“しゅく”と呼ばれていたのだろうという説もある。夙川の“夙”と同じ音だね。
 左の地図に“宿火村”という地名が見えるが、おそらく森具(守具)村のことだろう。



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