兵庫県芦屋市と打出とについて


芦屋市の位置 芦屋市(市町村コード 28206/JCC #2707)の位置を地図で示すと右のようになる。ロケーションは
 交通機関としては、鉄道の駅は北から  が利用できる。


芦屋市広報課 あしや くらしのハンドブックの地図を
改変・加筆

 道路は  が、市内を東西に走ってる。

 阪神高速3号神戸線を利用する場合、大阪方面からなら“芦屋”で降りればいいけど、神戸方面からだと神戸市東灘区の“深江”で降りて、しばらく国道43号線を走ることになる。
 阪神高速5号湾岸線なら南芦屋浜インターチェンジが利用できる。

 芦屋市の地図なんだけど、ホームページに掲載できる適当なのが見つからなかった。だいたい、みんなデカすぎるんだ。
 で、芦屋市広報課の“くらしのハンドブック”に載ってた“牛乳パック・ニカド電池回収事業”のマップを流用させて頂いた。(笑)


・打出(うちで)って? 芦屋って? 
-- その由来と略史など

 打出は旧打出村です。そして明治22(1889)年の市制・町村制施行のときは菟原郡 精道村、明治29(1896)年から昭和15年までは 兵庫県 武庫郡 精道村 打出。精道村は普通、“せいどうむら”と呼ばれるが、「あしや子ども風土記」には、なぜか“せいどうそん”とふりがながある
 打出とは、芦屋市の南東部一帯を差し、東側が西宮市に接してる。右の地図の“宮川”より東(右)の地区だ。(この件、下に訂正あり
 昔は芦屋村より打出村の方が戸数が多かったんだ。明治22年に精道村が出来る直前の戸数は、打出村252戸、芦屋村247戸、三条村37戸、津知(つぢ)村18戸ってなってるぞ。

明治時代の地図
明治17〜18(1884〜1885)年測量の地図 打出付近
 (芦屋市立美術博物館提供)
赤字は加筆
 明治4(1871)年の廃藩置県のあと、打出村、芦屋村、三条村、津知村の四つの村が兵庫県の管下に置かれることになった。当時は菟原郡 芦屋村、打出村…。その中で幕末のころ幕府の天領だった芦屋村と打出村とが2大勢力だったので、両村は結構ライバル意識があったみたいだ。

 明治22年の町村制施行のとき、打出村、芦屋村、三条村、津知村は一つの“精道村”になり、明治29年、菟原郡は八部郡とともに武庫郡に吸収され、兵庫県 武庫郡 精道村 が誕生したのだ。
 明治22年に村の名前を小学校の校名を取って精道村としたのは、「芦屋村か打出村か」でモメるとややこしいから、だったかも知れない。(笑)

 昭和15(1940)年11月に精道村から芦屋市に昇格した。そう、町を飛び越して村からいきなり市になったのだ。
 市制が敷かれたとき、打出市じゃなく芦屋市になってしまった事情を悔しそうに話してくれた古老の顔を思い出す。嘘だか本当だか知らないけど、古老は「打出村の代表の一人が席を外してるスキに多数決で決めてしまいおって…」って曰ってた。そういう経緯があるからかどうか、芦屋市になってからも、旧打出村にあった地域の町名は、昭和45(1970)年に住居表示制度が変わるまでは“打出”って冠を被ってた。芦屋市打出春日町とかね。

 現在、地名としての打出は「打出小槌町」と、比較的新しくできた「打出町」に残っているだけだ。ま、交通関係では「打出駅」、「山打出」交差点、それに、JRの「打出村踏切」に名を留めてるけどね。打出を消滅させようなんて旧芦屋村の陰謀じゃなかろうか?(笑)

 ところで、上記の「打出とは、宮川より東の地区…」と「住居表示に冠”打出”を付した」に関してだが、昭和初期、5歳の頃から20歳過ぎまで宮塚町にお住まいだった70歳(2003年現在)の方から下記のような情報を頂戴した。
機械的に計算すると、この方は昭和13(1938)年頃から昭和30年頃(1950年代半ば)までお住まいだったことになる

>私の家が神戸から芦屋に転居してきた昭和初めの頃、宮川西沿いの宮塚地区も
>「精道村打出宮塚○○番地」と住居表示に「打出」がついていました。
>同じように宮川の西沿いの上宮川や宮川の両地区はどうだったかは知りません。
>
>宮川の東から打出であったことは間違いもなく、その後、住宅地として新興した
>隣接の「宮塚や宮川」の地区が、当時大勢力だった「打出」の冠を付したのかも
>知れませんが。

 「新修 芦屋市史」の「芦屋市新町名と旧小字名」によると、芦屋市になってからの宮塚町は打出を冠してないんだが、精道村当時は「宮塚」も「打出」を冠した、あるいは冠することもあったんだね。
 宮川西岸でも、川に隣接する地域の人たちは「ここも打出」との意識が強かったのかも知れない。表札などの住居表示は戦後しばらく経っても古いままだったことも容易に想像出来る。貴重な証言を頂戴してたいへん嬉しい。

大溝川跡
 昔、大溝川が流れていたところ
右の歩道のようになってるところの下
ここが打出と芦屋との境界だ
左・宮塚町5 右・茶屋之町4
撮影:2003年12月 3日
 その後、2003年7月7日、芦屋村と打出村との村境は宮川ではないことを知った。芦屋と打出との境目は、もう 300m ほど西、現在の茶屋之町を宮塚町との間、業平町と上宮川町との間の大溝川だったのだ。「わがまち勉強会」というイベントで芦屋美術博物館の和田学芸員に伺った。
 これで上記の「宮塚地区も「精道村打出宮塚○○番地」と住居表示に「打出」がついていました」の謎が解けた。

 JR芦屋駅の南出口から出て少し東に行き、国道へ出る道、そう、「かごの屋」の西側の道だ。その道に大きな溝があったのを記憶しておられる方も少なくないだろう。あれが大溝川だ。
 大溝川は芦屋川の支流で、昔は宮川より大きな川だったのかも知れないが、今は暗渠になってその存在すら忘れられかけている。大阪城(大坂城)築城・修復の際、芦屋で切り出された石を大溝川からも大阪湾経由で運び出したらしく、今でも大溝川周辺には大阪城に運ぶ前に放置された石垣用の石が埋まってるとか。(下に追記あり
 「“大溝”と名のつく川は人工の川であることが多い。おそらく芦屋の大溝川も人工の川、すなわち運河だったんだろう」とのことだ。この話は2004年 5月10日、元芦屋市立美術館学芸員小田博氏に伺った。

 なお、宮塚町より南では、やはり宮川西岸の宮川町と呉川町も打出だそうだ。


 余談ながら、暗渠になってる、下水になってるってば、有名な童謡「春の小川」のモデルになった小川も今は暗渠、マンホールの下だ。「春の小川」は、東京は渋谷・代々木八幡(東京都渋谷区代々木5丁目付近)の河骨川
(こうぼねがわ、または、こうほねかわ)だ。すぐ脇には小田急線が走ってる。信州の山の中の川とかじゃないんだ。
 この河骨川は東京オリンピックのときに悪臭を放つとの理由で暗渠にされ、下水道に落ちぶれた。国文学者・高野辰之氏が「春の小川」を作詞したころ(明治の晩年?)は、代々木のあたりもスミレやレンゲ、それにコウホネが咲くのどかな田園風景が広がっていたのだろうな。


 これで芦屋村と打出村の村境の件は落着、と思ってた。ところが、2008年3月、呉川町にお住まいの窪田さんからメールを頂戴した。窪田さんから許可を頂いたので、何通かのメールから主要部分を引用させていただく。

>大溝川は震災のあと中央線が開通するまで、呉川町バス停以南はそのまま町の真ん中を流れる川として残っていました。
>43号線以南は現在は人工のせせらぎとしてその面影として残っています。
>北は中央線を北上すると、今は広くなりましたが、JRのホームの下を通る、古いトンネル部分の歩道部分に、
>暗渠がありました。それこそが大溝川ではないでしょうか?
>たしかトンネル出口で道路東側に流れを変えていたように思います。
>マイケルさんの写している写真にある暗渠は、念仏川の北側部分ではないでしょうか?
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>呉川町においては打出と精道の境は、念仏川になっています。
>呉川町においては少なくても大溝川が呉川町の真ん中を流れています。町境に流れているのが念仏川です。
>北の方も町境はどう考えても念仏川だと思います。
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>どうも境界が大溝川でなく、念仏川であったのではないでしょうか?
>念仏川はこのあたりでもほとんど知られていません。
>両方の川をごっちゃにしたのではないかと推測いたします。

次いで

>写真が手に入りました。
>1957年8月の写真です。
>
>場所は伊勢郵便局のある通りあたりから
>北を写しています。
>石のゴミ箱がある橋は玄関前の橋です。
>その北が竹園集会所の有るとおりだと思います。
>これで念仏川の存在も確認され
> 村境の名誉も回復されそうです。(笑)

 と、右上のような写真をお送りいただいた。1957年といえば昭和32年だ。当時は何気なく撮られた平凡なスナップだったんだろうが、今(2008年)となっては半世紀以上前の実に貴重な写真だ。

 実は、窪田さんは昭和33(1958)年から呉川町で理髪店を経営なさってるそうだ。そのため、古くからこの地域にお住まいのお客さんからの情報がよく集まるのだ。上の写真も理髪店のお客さまからの提供とのこと。実に嬉しい話だ。本当にありがとうございます。

 昔からお住まいの方が「これが念仏川や」と仰しゃってるのだから間違いなかろう。対話の中から発掘された真実と言っていい。故に、打出と芦屋との境界の川は宮川でも大溝川でもなく、 念仏川 だ。と、書き改めておく。
 ついでながら、写真の子供達は水着姿がだ、ここから歩いてすぐの芦屋・打出の海岸で泳ぐためのハズ。昔、芦屋や打出の海沿いに住む子供達はこういうスタイルで自宅と海とを往復したもんだ。(2008年3月追記)



摂津名所図会・第七巻
摂津名所図会・第七巻[寛政8(1796)年]より打出付近
芦屋市立美術博物館蔵  提供:芦屋市立美術館
 さてさて、最初って言うか、律令時代(7世紀後半〜9世紀)には、旧打出村とその北の岩ヶ平一帯を 摂津国 菟原(うなひ のちに うはら)郡 加美郷 と言った。ちなみに旧芦屋村は今の神戸市東灘区の一部を含めて、菟原(兎原)郡 葦屋郷と呼ばれた。
 “カミ”とは、都に対して近い方、すなわち“上の”位置にあるからって説が有力みたいだけど、芦屋川・宮川の川“上”の地域って説もあるようだ。この説に従えば打出というより、主として岩ヶ平一帯を指したのではないかと思う。・・・まさか“神”とは関係ないだろうなぁ…。
 ともかく、しばらくして“加美”の名は消えてしまい、葦屋郷に併合されたようだ。

 ついでに、葦屋(蘆屋・芦屋)って地名は奈良時代の8世紀頃には、今の芦屋市よりずっと広い地域を差してたようだ。甲南、すなわち、西宮市の夙川(しゅくがわ)以西、西は神戸市中央区の旧生田川(今のフラワー・ロード)までの六甲山南側の地の総称だったみたいだ。また、菟原(うはら 古くは うない)の名も、葦屋と重なるように用いられていた、とも聞く。
 以前、芦屋から住吉にかけての山手で野ウサギをよく見かけた。薄茶色のヤツだ。六甲の南麓には野ウサギが多かったので、このあたりの地名として菟原って字をあてたのだろうか? “うはら”は海原に通じ、海辺を意味するのだろうか?

摂津国と菟原の近くの郡 地名なんて、奈良時代よりずっとずっと昔からあったろうから、“あしや”とか“うない”あるいは“うなひ”、“うはら”なんて呼びかたは、この地に住む人々が文字を持たない有史以前からあったのかも知れない。

 原人も喋れたいう説があるし、10-15万年ほど前の新人(ホモサピエンス)は既に言葉を持ち、3-5万年前の人間はかなり高度な言語を持ってたってのが定説らしい。
 だから、まだ文字を知らない5〜6世紀以前のこの地の人々も、地名の区別はしたはずだ。彼ら地、“うなひ”に“菟原”の文字を当て、その後、文字から“うはら”と呼ばれるようになったのかも知れない。

 なお、芦屋・蘆屋・葦屋の名のいわれに関して、「『葦葺きの(粗末な)家』ってところから来ている」とか、「葦の茂ってる風景が美しいから」って説を聞いたことがある。なるほど、打出の海辺近くは葦がいっぱい茂ってたと聞くし、西宮市東部の海岸近くに「葭原(よしはら)」の地名が今でもある。
 けど、こっちも漢字以前に遡るかも知れない。

 打出の地名の由来

 “打出”の由来に関しては、色んな説があり、このサイトの複数のページにバラバラに書いてるけど、ここにまとめてい書いておこう

 もちろん、どれが本当か判らないし、全部違ってるかも知れないし、もしかしたら複数が本当かも知れない。(笑) 実は、“うちで”も今は失われてしまった古い日本語から来てたりして…。


・この地にはいつごろから人が住み始めたのか?

芦屋の遺跡模型
朝日ヶ丘集会所内にある 1/300 の芦屋の遺跡模型
近くに朝日ヶ丘縄文遺跡がある
芦屋市朝日ヶ丘町30-9 撮影: 2002年9月21日
 2万年ほど前の旧石器時代には、既に人がいたらしい。打出の春日町からは旧石器時代の生活跡の痕跡が見つかってる。また、山芦屋の遺跡からは阪神間最古の8千年ほど前、縄文時代前期の土器などが発掘されてる。もちろん、縄文時代後期や弥生時代、それに古墳時代以降の遺跡もたくさん出てる。
 だから、旧石器時代はともかく、縄文時代の早い時期から芦屋にはずっと人が定住し続けていたと考えて間違いないだろう。そうそう、人間じゃないけど、ナウマン象やヘラジカの化石も芦屋から出土している。

 昔の芦屋が一番栄えたのは、大伽藍を持つ大きなお寺があった7世紀末の白鳳時代から8世紀頃かも知れない。その当時は菟原郡(西宮市西部から神戸市東部まで)を統括する役所(郡家)も芦屋市西山町にあったようだ。





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