海にできた芦屋


浜から打出駅に通じる道
芦屋市浜町13から  撮影:1999年11月19日

堤防は残ってるけど、堤防の向こうは海じゃない
芦屋市伊勢町13  撮影:1999年11月19日

1925年ころの芦屋浜


 阪神・打出駅から打出商店街を抜けて、真っ直ぐ南に降りると堤防があって、その向こうは真っ白な砂浜のある海岸だ。鎌倉とかの富士山の火山灰のどす黒い砂浜じゃなく、ほとんど真っ白な砂なんだ。そこに見事な松並木。人は「白砂青松」とそのコントラストを称えた。

 阿保親王もお気に召したこのすばらしい砂浜があるから、海の眺望があるから、大阪や神戸のお金持ちが打出や芦屋に別荘を建てたりしたんだ。今の芦屋市があるのも、この美しい海のおかげだと言える。

 脱衣場とちょっとした屋台みたいのしかない粗末な海水浴場だけど、金のない夏休みなんか格好の娯楽兼スポーツ場だ。なにしろ無料で思いっきり遊べるんだもん。ただし、昭和も30年代になると、あんまりきれいな海じゃなくなったけどね。^^;

 海水浴場は打出だけじゃなく、芦屋にもお隣の西宮市の香櫨園浜にもある。そうそう打出の西には漁船があって漁師さんがいたなぁ。確かそこの浜には戎神社の小さな祠があった。あそこでは泳いじゃいけないはずだ。

 と、言うのは30年以上昔の話で、芦屋の海ははるかに南に行ってしまった。今は海はあっても海水浴場もない。打出の浜も芦屋の浜も、香櫨園の浜も消えてしまった。ま、打出には海浜公園プールなんてのはあるけど、有料だ。(笑)

 芦屋の海の埋め立ては昭和42年(1967年)に決まり、芦屋シーサイドタウンの開発は昭和44年(1969年)から始まった。で、そこにあった海は消えた。
 実は、芦屋や打出の海水浴場は海が汚くなったからと、それより以前の昭和39年(1964年)には閉鎖されてた。確かに昭和30年代の終わりには、打出の海は砂浜は痩せてて、海水もあまり塩っ辛くなくヘンな味がしたし、色も茶色だったけどね。

 なお、打出と芦屋の海水浴場のオープンは明治38年だそうだ。同年4月12日に阪神電車が開通し、打出駅と芦屋駅が出来てる。海水浴場のオープンのとき、どういう施設が出来たのか?とか、何をどう整備したのか尋ねたけど、なんだか判然としなかった。(笑)

 古いモノクロ写真はいつのだか判らないんだけど、左の子供は2003年に88歳で亡くなった。当時この坊やが10歳とすると、大正15年の写真ってことになる。もちろん拙者が生まれるはるか以前だ。(爆)
 アルバムには“芦屋浜にて”とコメントがあった。神戸の北長狭から津知(つぢ)の別荘に遊びに来られてたとのこと。なんとなく芦屋川河口のような気がする。この頃は芦屋の海もきれいだったろう。


 久し振りに打出の浜に行った。打出駅から浜に通じる道は以前はもっと狭かったと思う。子供なんか水着のままこの道を歩いて浜まで泳ぎに行ったもんだ。明治の中ごろまで、この道沿いは大きな池が3つほどあり、池の周りには葦が茂っていて水鳥がいたそうだ。今は新しく出来たシーサイドタウンから南芦屋浜に行き来する車がひっきりなしに通る。
 昔の堤防は打出と芦屋との間にだいたい残ってる。けど、堤防の向こうは砂浜じゃなく、学校だったりグラウンドだったりする。
 ヒガミかも知れないけど、堤防は取っ払うのが面倒だからそのまんま置いてあるって感じだな。ま、昔の海を知ってる拙者としては、こんな堤防でも残しといてくれた方が嬉しいけどね。

 以前は堤防の上を車で走れて、芦屋川の河口から西宮市の夙川(しゅくがわ)の河口まで行けた。この道は夏以外はほとんど人通りがないし、見通しがいいんでバイクでぶっ飛ばすにはもってこいの道だったぞ。パトカーなんてマズ来ないしね。(笑)
 今は昔の堤防の上は人と自転車の遊歩道のようになってて、車は昔砂浜だったところを走ってる。

戎社があって、隣に芦屋漁協がある
芦屋市浜町15  撮影:1999年11月19日


 打出から東に向かうと懐かしい鳥居があった。「戎社」と書いてある。で、左下に「芦屋漁業協同組合」って赤茶けた看板が見えた。けど、南の海の方を見ても、漁船なんて見える訳ない。
 建物には人が住んでおられるようだしするから、芦屋漁業協同組合は厳として存在するのだろう。今、打出の漁船は西宮市との境に何隻かあるって聞いたことがあるけど、確かめてない。

 昔はこの浜から漁船が出港してたし、網なんかが干してあった。たぶん、底引き網だろう。で、芦屋〜香櫨園に掛けて「とれとれのイワシ〜」とか「アジや〜、コアジっ」て売りに来てたもんだ。浜までバケツ持ってとれたてのを買いに行ったって話も聞いたことがある。
 ず〜と前、打出の浜で地曳網を見たような気がするんだけど、人に聞いただけか、昔の写真を見ての記憶だったのかも知れない。「もしかしたら夢だったのかも知れないな」と、改めて人に尋ねたら、確かに1950年頃まで地曳網漁をやってたそうだ。

 更に西の方に行くと伊勢町の図書館やお世話になってる美術博物館が見えてくる。堤防は何やらキャンバス代わりに使われてるが、近くの保育園の子が描いたのだろう。そう言えば、芦屋浜にはその昔、水練学校なんてのがあったなぁ。確かこの辺の海だったと思う。







芦屋ハイタウン
芦屋市大東町18  撮影:1999年11月19日

芦屋マリンセンター
芦屋市浜風町30  撮影:1999年11月30日

シーサイドタウン
芦屋市高浜町6より  撮影:1999年11月19日

夜のシーサイドタウン
芦屋市春日町2より  撮影:1999年11月19日

シーサイドタウンの花火大会
芦屋市春日町2より  撮影:1998年8月2日


 昔の堤防の南に行ってみた。ここは海だったところだ。打出海水浴場だったところに打出浜小学校ってのが出来てる。打出駅の北の春日町までここの校区なんで、春日町北部の子なんか、毎日 1km 以上も歩いて学校に通うことになる。

 ここには昔ながらの打出や芦屋みたいに古い歴史はない。縄文時代や弥生時代の遺跡なんて出てきっこない。ここの歴史は昭和の晩年から始まってるんだ。それだけにさっぱりしてる。

 上の書いたように、芦屋シーサイドタウンの開発は昭和44年(1969年)から始まった。で、昭和50年(1975年)に一部が完成し、人が住みはじめたんだ。
 シーサイドタウンが出来て数年後に来たことがあるんだけど、その頃は立ち木なんかも若く、なんか寒寒とした感じだった。あれから20年以上経った今、街はすっかり落ち着いた雰囲気になってる。

 平成7年(1995年)の阪神大震災では、埋立地のここは地盤が液状化現象を起こし、大きなマンションまでが傾いたりクラックが入ったりした。
 打出の一番東に大きな真新しいマンションが目に入るが、このマンションも甚大は被害を受けだのだ。
 建て替えか建て直しかで住民の意見が分かれ、結局建て直しになった。地震からほとんど5年経ってやっと完成し、1999年11月中ごろから入居が始まった。ここにはまだ海が少し残ってて、東は西宮との境の堀切川の河口だし、西にはマリンセンターのヨットなんかが見える。


 さて、そのマンションの南西に芦屋マリンセンターがある。ここは色んな看板が出ててる。
 よく判らないんだけど、たぶん、芦屋海浜公園の中にヨットやカヌーに乗れるマリンセンターと、海浜公園プールがあり、散歩が出来るってことだと思う。
 ともかく、マリンセンターではヨットやボート、それにカヌーなんかを貸してくれて、講習もやってくれるそうだ。
 また、海浜公園プールは温水プールで夜の9時までやってて、水泳教室なんかもある。お金がないなら、付近を散歩するだけでも気持ちがいいぞ。(笑)

 上から3番目の写真は高浜町のシーサイドタウンのダイエーから北を見た風景だ。独特のデザインの高層マンションがこのシーサイドタウンの中心になってる。
 昔は、夜になると打出の高台から漁り火が見えたそうだけど、今はシーサイドタウンの灯が見える。打出からだと、少し東の方を見ると甲子園球場の明かりも見える。

 毎年8月、夏の芦屋祭のときにシーサイドタウンで花火大会が行われる。花火はかなり遠くからでも見えるけど、やっぱり音の迫力もあるしするから、間近で見るのがいいな。

 シーサイドタウンの更に南に“南芦屋浜地区”が出来て平成10年(1998年)から入居が始まってる。更に新しい芦屋の誕生だ。






あゆみ橋より、北のシーサイドタウンを見る
撮影:1999年11月30日

芦屋市陽光町5、6  撮影:1999年11月30日

阪神高速5号湾岸線 南芦屋浜インターチェンジ
芦屋市陽光町3  撮影:1999年11月30日


 シーサイドタウンの南、“南芦屋浜”だ。南芦屋浜地区の開発は昭和62年(1987年)から開始され、平成10年(1998年)から陽光町の住宅への入居が始まり、人が住みはじめた。今(1999年11月末)出来てる住宅は東から、公社住宅、県営住宅、それに市営住宅だけのようだ。

 シーサイドタウンから南芦屋浜に行くには3本の橋のどれかを通らなければならない。
 橋は東から浜風大橋、あゆみ橋、潮風大橋だ。この内、あゆみ橋は歩行者と自転車専用になってて、原付以上の車は通れない。

 南芦屋浜地区の一番北には広い“陽光緑地”があり、ここからの眺めはすばらしい。シーサイドタウンと南芦屋浜の間がちょうど運河のような感じになってるんだね。拙者が行った時も、ここの海でカヌーの練習なんかをやっていた。

 陽光緑地の南は阪神高速5号湾岸線が走ってる。南芦屋浜インターチェンジがあるので、芦屋から神戸の六甲アイランドや大阪の南港〜関空方面にはこの道を通るのが速いだろう。
 
 湾岸線の南が上に書いた陽光町の住宅地だ。その南の海洋町、南浜町、涼風町はまだ殺風景な工事現場だった。南浜町には将来マリーナが出来、更には南芦屋浜地区のどこかに人工の砂浜が出来るって話も聞いてる。打出浜の復活かな?





戻 る トップ